ビニールの傘が透明な水滴を弾いている雨の世界、一晩経っても止んでない外の風景におれは溜息を零した。

「あれほど起こせっつったろ、この馬鹿まさ」
「いい加減自分で起きろよ…」

 姉の態度は一切変わらず、相変わらずの傍若無人さ。まるで、昨日の出来事がすべて嘘だったかのような態度だった。
 本当…姉が強いのか、女が強いのかわからない。
 シャコシャコと歯を磨き、とりあえず心の中だけで礼を言った。
 面と向かって言えば何を言われるかわからないし、流石に姉ちゃんもそこまで神経図太くないだろう。
 悠々自適の大学生活、姉ちゃんは半分寝ながら朝飯を食べていた。

「いってきまーす」
「いってらしゃーい」

 雨の世界に飛び込むのは憂鬱だ。でも、昨日より幾分気分はすっきりしていた。
 着実に、前に進めているからだろうか?
 早く学校に行って、会いたいな。先輩に。
 乙女かよ、おれ。と、思わずツッコミを入れたくなるような思考に吐き気がしたけど、体は正直でいつもより少し早い時間に玄関を開いた。

「よぉ、まーさや」

 ……やられた。
 そういえば、この人はおれ達がそういう感情を浮かべる前から、こういう事を仕掛けるのが好きだった人だ。
 あの時は和泉に対しての攻撃に、おれに対してのからかいがあった筈だ。でも、今は?
 にやにやと笑いながら黒い傘を差している志岐先輩は、薄暗い雨の中でもやっぱりかっこよかった。
 恥ずかしいし、調子乗りそうだから言わないけど。

「朝からかわいーな」
「……朝から目玉腐ってますね」
「おっまえ、どんどんオレに対して遠慮なくなるな…マジで」

 傘をパンッと、開いて先輩の隣に立てば甘ったるい顔がおれを見下ろしている。
 本当…なんで、今までのおれって先輩のこういう様子に気づかなかったんだろ。
 目つきは悪いけど、柔らかすぎる雰囲気は完全に甘やかされているってわかる。おれの事を、大事に扱ってくれているって理解できる。
 恥ずかしすぎる。
 そういえば、昨日おれと、先輩って…ってか、おれ一人だけど、先輩の前で思いっきりイっちゃって…!

「政哉ぁ?」
「ひゃい!」
「…馬鹿面」

 アンタのせいで、こういう顔なんだよ。
 雨のせいか、傘のおかげで隣に立っても不自然じゃないおれから見た志岐先輩は、口角を上げて笑みを作っていた。
 その綺麗さに、おれはそんな言葉も忘れてしまう。
 敵わないと瞬時に悟り、頭の中で色んな話題を探し出す。ええと、ああ、そうだ。 

「あ、そういや姉ちゃんが志岐先輩に会いたいって言ってましたよ」
「へぇ…政哉の姉ちゃんだったら可愛い系か?」
「どういう理屈ッスか…ってか、真反対の凶暴ッス」

 真反対ねぇ。含みを持たせた言葉に、ジロリと睨みつければ先輩は苦笑いを零す。
 今回の事で姉の株は大幅に上がったが、それでも根本には凶悪女のイメージが政哉にはある。
 そして、そのイメージのままの姉でいてくれる事こそが、いいことだとも知っている。

 昨日の事をおれは端的だけど先輩に話した。
 赤の他人がおれ達の事をどう思っても良いけど、知り合いにはやっぱり言っておきたいという考えも。
 意外に行動的だと思われたのか、先輩は驚いたようにまじまじとおれを見つめていた。
 裕人、悠一、姉ちゃん。今まで世話になった人間に、そういう事を言うのは当然だっておれは思うから。
 相手を混乱させるのも、嫌悪を抱かせるのも怖いけど、先輩と一緒に歩くにはそういう事をしなきゃ駄目だって思ったから。

「…なんつーか。政哉ってオレが心底好きなんだなぁ」
「ばっかじゃねェの! お、おれは、そういう」
「はいはい。分かってるから顔真っ赤にするな」

 待ってるぞ。

 そう、雨に掻き消えてしまいそうな言葉を呟かれ、おれは傘と一緒にこくりと頷いた。
 待たせたくない、進みたい。
 その為に、一歩一歩確実に、あんたに繋がる足跡を刻むんだ。



× × ×



 生憎の雨は梅雨の時期だからか、長雨となっていた。天候は回復する事はなく、荒れた天気は授業の合間に雷を鳴らしている。
 こういう場合、乙女の男はキャッと悲鳴を零しているが、大抵の男子はどこかわくわくした様子で窓に視線を送っている。
 被害がなければ、こういう自然現象は何故かテンションが上がるのだ。
 が、帰り時にまでそんな天気が続いていたら話は別だ。

「今日って政哉バイトだっけ」
「悠一君は直帰ですよねー」
「にしし。まあ、働いて稼いできなさいな」
「うっぜえ!」

 バイトの事は先輩にメールを送った。
 どうするべきか考えたけど、志岐先輩が迎えに来て断るのも悪いから、先に知らせておいた。
 付き合っているわけじゃないけど、一応おれの気持ちも、先輩の気持ちも両者が理解しているからなかなかに複雑な関係で線引きが難しい。
 そうしているのはおれだから、先輩には一切文句はないけど。

 もしかしたら迎えに来るかもしれないけど、放課後一緒に店に行ったら先輩はそのまま居座りそうだから丁重に、断りの電話をしている。
 好きな人にじっと居座られて平常でいるほど、おれは経験値が高くないし、そこには共通の知り合いがいて何より気まずい。
 それを理解してくれているのか、単語で「了解」と、先輩は返事をしてくれた。

 この人って、本当、おれに甘い。

 和山先輩の実家がしている喫茶「Zizz」は学校から歩いて20分程度。おれの家から10分程度の駅の向こう側にある。
 雨の中の移動は本気で面倒だ。
 足元で水と泥が跳ねて、スニーカーが水を吸えば重くなる。水溜りが広がりすぎて、道路が濁った鏡のように世界を映していた。

 働いて、オーナー…にも話したほうがいいのか、やっぱ。
 相談したこともあるから、そうした方がいいよな。どういう反応を向けられるか分からないけど、頑張ろう。

「おい」
「は?」
「牧野、政哉クン?」

 そこには、見覚えのない存在がいた。



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