ざあ、ざあ。
 雨の音が鼓膜の奥まで侵略して、脳の奥から雨の音が響いている気がした。
 目の前には、足を組んだ姿勢の姉ちゃんがいる。憮然とした態度でおれを見下ろして、おれは床に正座させられている。

「……あんた、今口を滑らしたの。それとも、分かってて言ってるの」
「……」
「後者ね」

 後者であって、前者だ。言いたかった言葉だけど、今日はまだ、言うつもりは無かった。
 いくら先輩と約束して、裕人に報告をしたからと言って、家族と言う砦はまだまだ攻略しようと思っていなかった。
 何かと世話を焼いてくれたオーナーに言って、和山先輩にも一応言いたかった。
 和泉とも色々話をしたかったし、それらを終えて、それとなく家族に言いたかった。色々飛び越えてしまい、頭の中は後悔とパニックしかない。

 姉ちゃんは家族の中で唯一志岐先輩を見ている。
 クリームパンを渡すように言い出した姉ちゃんは、面と向かっては会っていないけど間接的に会っている。
 柚木川がどういう高校なのか、姉ちゃんは爆笑しながら聞いていて知っている。
 ホモやバイの言葉で受けていた姉ちゃんだけど、それは関係なかったからだ。まさか弟がその道に入り込もうとしているなんて知ったら、気持ち悪いだけだろ。
 沈黙が苦しい。膝の上で握った拳からは嫌な汗が湿った感覚を伝えていた。

「――黒髪に、赤いメッシュの子」
「……」
「あんた、そういう趣味だったの」
「……」
「違うわよね。あんたの初恋って幼稚園の先生だったし、エロ系だって女の子ものだし。DVDは女子高生と魅惑の放課後だっけ」
「なんっでおれのエロDVDのタイトル…!」
「誰だと思ってるわけ? お姉様だけど」

 嘲笑ともとれる笑みを浮かべる我が姉を見据え、DVDの隠し場所を変える事を決意する。けど、今はそういう問題じゃないだろう。
 姉ちゃんは真直ぐおれを見ている。
 昔から、敵わなかった。喧嘩も、勉強も、スポーツも。
 身長は追い越して、体つきも変わったけど、それでも姉ちゃんがやっぱり強い。射抜くような眼差しは、志岐先輩とはまた違った怖さがあった。

「その子、名前は」
「……志岐、伊織先輩」
「ふぅん」

 目が、見られない。嫌な汗が掌だけじゃなくて、背中にも流れていく感覚がした。
 こんなに、落ち着いているというか、無反応な姉ちゃんは初めてで、怖い。
 認めてくれなかったら、おれは、どうすればいいんだろう。
 認めて、くれなかったら、先輩と離れるのか?
 それは、絶対にいやだった。家族も、先輩も、友人も、おれは欲しい。
 でも、そのなかで家族が先輩を認めなかったら、おれは、たぶん最後には先輩を選ぶんだ。理性で世界をまとめようとしても、本能が誰を求めているのか知っているから。

「政哉、あんたって本当……昔から、何かに巻き込まれてはぐるぐる悩むわよね」
「仕方ねぇだろ…性分なんだから」
「そうかもね。……で、あんたはこれからどうしたいの」
「…どうって」
「私に知られたわよ。あんたは、はっきり言葉にしてないけど」

 どう、って…。
 姉ちゃんを見ても、何を思っているのかおれには分からない。否定か、肯定か。おれの事をどう思っているのか、姉ちゃんはわからない。
 どう、したいのか。考える間でもないものだった。
 雨が窓を叩きつけて、沈黙の世界を一気に打ち消す気がする。
 怖い。姉ちゃんが何を思っているのかわからなくて、おれの言葉を、先輩を否定されるかもしれない。
 浮かんだ存在は、志岐先輩だった。伝えたい感情が、自然に口から出てくる。


「志岐先輩と一緒にいたい」
「おれは、先輩が一番大事だ」
「誰に何を言われても、譲れない」


 ゴッ! 鈍い音が頭から聞こえてきた。
 死ぬ。今一瞬、星が見えた。天使がおれを迎えに来ていた。苦悶の声を零していると、頭上から声が届いてくる。
 相変わらず憮然としており、どこか偉そうな態度はまさに姉様というところだろう。

「そういう事はね、早く言いなさいっての」
「…姉ちゃん?」
「政哉が昔から平凡で、普通の馬鹿って知ってるのは何より家族でしょ。あんたが好きになった相手が…偶然男だっただけでしょ」
「でも、」
「友達よりも先に言わなきゃいけないのが、私らでしょ。ふざけんじゃないわよ。一体誰が、あんたの面倒16年も見ていたのよ。そういう悩みは、最初に姉に話してろ馬鹿」

 馬鹿。の、言葉には微かに怒った声とは別に、戸惑いの感情が込められている気がした。
 おれが今姉ちゃんを困らせている、それを分かってて、おれは言い終わって良かったなんて、思ってた。
 そうだ、姉ちゃんは、今までのおれを知っている。
 子どもの頃、初恋の先生、小学校の時はころころ好きな子が変わった。中学はバスケ部で、そういう時間がなかった。

 姉ちゃんは傲慢だけど、それでもおれの事を見守ってくれていた。

 いつだって凶暴で、いつだって傲慢で、ゴキブリが出たらおれを頼って、初めてフラレた時は一晩中泣いていた。
 困ってると思う。どういう言葉を言えばいいのか分からないと思う。
 でも、姉ちゃんはそれでもおれの姉として振舞おうとしてくれる。腕力よりも、心が強いから、おれはいつでも姉ちゃんに負けっぱなしだ。
 ごめんよりも、ありがとうの感情が勝っていた。

 好きになった人が同性だというだけで、物事には問題が付きまとう。
 姉ちゃんは女の人だから、おれよりもそういうことは敏感かもしれない。
 その証拠に、応援をする言葉も、否定も、肯定もなく、姉ちゃんはただ、おれの気持ちを聞いていた。

「……今度、その志岐くん。紹介しなさい。命令」
「…ん」
「あと、父さんと母さんにはもうしばらく伏せときなさい」
「――そう、思う?」
「まあね。せめて、あんたが胸張って、志岐くんの事紹介できるまでは、黙ってたら」

 姉は強し。
 ぐしゃぐしゃと頭を撫でる姉ちゃんの熱を感じながら、そんな風に思った。
 おれの迷いも、困惑も、たぶん気づいて背中を押さないし、裕人たちみたいに突っつかない。ただ、普段通りに振舞ってくれる。
 怖がっていたおれを知って、その上で言葉を引き出してくれる。

 先輩の事がなかったら、気づかなかった。
 おれの姉ちゃんって、凶暴で、凶悪で、強欲な姉ちゃんだって思ってたけどもしかしたら――最高の姉ちゃんかもしれない。
 こんな弟で、ごめん。
 でもおれは、姉ちゃんが姉ちゃんで、今本当に、良かったって思ったよ。



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