雨が、降っていた。

 藍田裕人の履歴が残る携帯を充電器に差込、おれは部屋のベッドに体を投げる。
 疲れた、な。
 この間から一瞬で色々と色んな出来事が起きている。頭の中は色んな事が詰め込まれて、何を考えればいいのかよく分からなくなる。
 気を静めるために、肺いっぱいに溜めた空気を吐き出せば、政哉。と、扉の外からおれの名前を呼ぶ姉ちゃんの声が聞こえてきた。
 そのままおれの了承も得ないで部屋に入るのが、姉ちゃんという人間なんだろう。

「何、もう寝るのあんた」
「ちっげぇよ」
「ハサミ借りに来たんだけど。どこ?」
「棚の文房具入れの中、たぶん」

 昔から、姉ちゃんの物は姉ちゃんの物、おれの物は姉ちゃんの物だ。がさごそと探す音を耳に入れながら、おれは姉ちゃんの背を眺めていた。
 姉ちゃんには、彼氏がいる。高校のときから付き合っている人で、おれも何回か見ている。
 直接話した事はないし、姉ちゃんも必要以上には語らないけど、好きなんだって、わかってる。
 家では凶暴我侭なだけなのに、好きな人のためだったら…姉ちゃんも必死になるんだろうか。
 じっと眺めていると、不意に、姉ちゃんがこっちを向いた。

「見物料とるわよ」
「なんでだよ」
「見すぎ。何、なんかあるわけ」
「……なんも、ねぇよ」

 言った瞬間頭を容赦ない拳が襲った。グー! 女が普通グーで思いっきり殴るか!?
 悶絶し、頭を抱えたままのおれを前にし、姉ちゃんは椅子を引いて足を組み、そんなおれをさめざめとした眼差しで見下ろす。
 その姿はまさに女王様だ。ピンヒールと、蝋燭、ムチがとても似合いそうな姉に恐怖を覚える。
 それにしても髪色に、瞳の色も同じなのに、どうしてこうもおれの雰囲気と、姉ちゃんの雰囲気は真反対なのだろうか…。

「あんたさ、最近思ってたけど様子おかしいわよね」
「そ、んなこと」
「馬鹿じゃないの。16年間あんた見てるの。誤魔化すなら今度は股間踏んづけるわよ」

 この女はそういうことに限り有言実行の女だ。
 過去の思い出が走馬灯のように蘇える。睨みつける眼差しの怖さに、萎縮する。
 おれのほうが、身長大きくなってるし、力もあるはずなのに世の中の弟はやっぱり姉には勝てないのだろうか。それとも、おれだけか?
 体を縮こませているおれを、じっと見つめている姉ちゃんの視線が痛かった。

 けど、普段ならここで色々吐き出すけど今回ばかりはそうもいかなかった。
 長年培ってきた姉ちゃんとの関係で、吐き出しかけたけど唇からは微かな息しか零れない。だって、まだ、家族には言えないだろ。
 いや、おれは、家族には言えるのだろうか。
 おれが好きになった人は男で、相手も男だ。つまり、将来は、どうするんだろうか。結婚もしないで、子どもも作れないで、おれはなんとなく、それは構わないと思っている。
 まだ見ぬ将来よりも、目の前にいる志岐先輩に早く、おれは自分の気持ちを伝えたい。

 けど、親は、どう思うのだろう。

 たまたま好きになった人が男だった。たまたま好き合える関係になった。好きになった相手が女じゃないだけで、きっと、世間は。
 姉ちゃんも、母さんも、父さんも、おれを…気持ち悪いって、思うんだろうか。そんな息子を持って恥ずかしいって、思うのだろうか。
 志岐先輩は大事だ。好き、だ。そればかり感情が先走るなか、おれの理性に絡み付いているのは世間と、何よりも、家族の存在だった。

「…政哉?」
「なんでも、ない…から」
「……」
「だから、もういいだろ」

 逃げるな。逃げたい。逃げるな、逃げるな、逃げるな!
 でも、だって。気持ち悪いって言われたら? 近寄るなって言われたら?
 先輩も家族も、両方欲しいって思うおれは強欲なんだろうか。歯噛みし、拳をぎゅっと握り締めて、意味も無く「ごめん」と、出そうになった言葉は消えた。
 ゴッ。
 鈍い、音と一緒に。

「うだうだ考えてないで話せっつってんの、愚弟」
「いっでええええええええええええ!!」
「あんたいつから私に意見出来るようになったわけ? 私が話せって言えば、話せ」
「痛い痛い痛い脳味噌がいてぇえ!」
「チョークスリーパーかけられるか、このまま頭部握りつぶされるか選びなさい」

 死ねってことだろうか。容赦のない二択に鬼神を見た気がした。
 涙目で姉ちゃんを見上げれば、般若様が御光臨されている。
 もしかして、あの最強の不良かもしれない志岐伊織よりも、この姉のほうがおれにとっては恐怖なのかもしれない。と、今更ながらに思った。

 でも、何をされても言う言葉に対しては、やはり戸惑いがある。
 全てを語った時に、残った感情が嫌悪だった場合、おれはどうすればいいのか分からない。
 言い淀んでいるおれに、姉ちゃんはギロリと睨みつけた。

「い、言って…」
「あぁ?」
「言って…姉ちゃんに、おれを気持ち悪いとか、迷惑だとか、思われたら…嫌だ」
「……はぁ?」
「だって、どうしようもねぇじゃん…! 最初から、そんなつもり、無かったのに!」

 理解できない。
 そういう眼差しを向けながら、姉ちゃんはおれの頭を掴んでいた手を緩めた。
 おれだって、いきなり気持ち悪いとか、迷惑とか、姉ちゃんが言い出したら困惑する。意味が分からなくて、なんだこいつ。って、思う。

「自分から、好きになろうとしてないのに…いつの間にか好きになってたんだから、仕方ねぇだろ…っ」

 遠まわしに、でも、理解される文句。
 好きになったら、駄目だった人。好きになってしまった人。もう止まらない感情は、まるで、決壊したダムの水のように世界を覆う。
 姉ちゃんの目が、ゆっくり、そして、大きく見開いた気がした。



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