夕方、伸びる影、子どもの笑い声、茜色の空。
 おれは、一体何回この世界を先輩と共有するんだろう。

「梅雨入りするなー」
「…そう、ッスね」
「たりぃよなぁ」
「…そう、ッスね」

 雄々しい黒が目の前を平然と歩いている。女子高生や主婦と通り過ぎる度に、甘ったるい視線が先輩に集まる。
 なんだろう、この状況。
 じっと先輩を見据えていると、先輩はおれを見ることも無く駅に進んでいく。
 バイトは、何故か急に休みになった。おれは別に望んでなかったのに。むしろ、志岐先輩とは会いたくなかった。

 何を話せばいいんだよ。キスした相手と。

 気恥ずかしさと、気まずさ、微かな恐怖があった。マイペースに進んでいく先輩の背を眺める。
 170もないおれと違って、180近い先輩の背は広くて大きい。一個だけしか変わらないのに、先輩の雰囲気は大人っぽい。
 かっこいいし、優しい、強くて、我侭でエロイけど…親近感が沸く部分があって、だからこそおれは憧れた。

 なあ、なんで?

 足が止まった。音は世界に存在している。
 両方の耳から入り込んでくる音の群生を認めながら、おれはそれでも言わずにいられなかった。
 行き違う人はいない。でも、車は横を通っていく。
 足音は消えて、先輩はおれの方を振り向いた。逆光で顔はよく確認できなかった。

「なんで」
「………」
「なんで…あんなこと、したんスか」

 躊躇って一瞬唾液が喉を塞いだ。それを強引に飲み込み吐き出した言葉は、情けないけど震えていた。
 志岐先輩は何も言わない。
 じっと、おれを見ているだけだった。
 おれが、尋ねるのが意外だったのだろうか。
 この問題に一日中悩まされている、家に帰って一晩うんうん唸るよりもおれはすぐに解決したかった。解決したくなかった。
 がしがしと頭を乱暴にかく先輩。セットした髪が崩れるのに、ワイルドなかっこよさがその仕草から滲み出ていた。

「お前、オレのことどれだけ遊び人だと思ってんだよ」
「……」
「女ならまだしも、政哉は男だろ」
「志岐先輩は、」

 好きなのか、おれを。
 好かれてるのか、おれは。
 見据える眼差し、近づく気配、見上げた存在の表情が双眸に映りこんだ。


「好きだ」


 怖い、って、思った。
 ざわめいた、心臓が。
 震えた、体が。

 先輩は男だ。おれも、男だ。男同士の恋愛はおれの中にはなかった。
 先輩に触れられたら嬉しい、認める。
 先輩は優しい、傍にいたい、認める。
 でも、付き合うのは、キスして、抱き合って、セックスをするんだろ? 生憎、そこまでの知識はおれにはない。怖かった。
 家族も世間も認めない。先輩は、おれが好きだって言ってるのに。
 嬉しいのに。
 自信がない。先輩につりあう自信も、傷つかない自信もなかった。

「なん、で…おれなんか……」
「可愛いから。笑ったり、照れたり、一人で馬鹿みてぇに考え込んでるところがいい。何気にエロイところも好きだ。泣くのを堪えてる顔なんか特にいい。無自覚、自己中、意外とチキン」
「…それ、本当に…す、き…なんスか。大体先輩は…ホモじゃないんですよね」
「ああ。オレは、牧野政哉だったら男でも女でもいい」

 嬉しいって、思うのはおれが――認めたくないけど、裕人や、悠一の言うとおり、志岐先輩に好意を持っているからなのだろうか。
 真直ぐな眼差しに心臓が五月蝿くなる。その傍ら、背中には冷ややかな汗が滑る。
 無理だ、おれは。
 先輩みたいに自信満々に言えない。そういう感情を、男相手に認めるのは怖すぎる。逃げてるって、理解して、卑怯だって知っていながら背を背ける。

「お、れは…」
「常識とか、倫理とか。怖いか?」
「……」
「でも、仕方ねぇじゃん。――好きなんだから」

 愛しちゃってんだよな、お前を。平凡なのに、正直無鉄砲で馬鹿正直なだけなのに。ただ、それだけなのにこんなに欲しい。
 政哉の態度を見ていれば、なんとなくお前がオレを好きなのは知ってるし、勝てない勝負は絶対しないタイプだし、オレ。キスしてぇ、抱きしめてぇ、セックスしてぇ。
 欲求不満じゃなくて、政哉だから、そう思う。
 同性愛なんてクソクラエ。って、思ってたのに。気色悪いって思ってたのに。
 ぶつかって、喧嘩して、笑って、セクハラもしたなぁ。そうしたら、仕方ねぇじゃん。お前が可愛く見えてくるし、触りたくなるし、イライラもした。

「政哉は言わなくてもいい。オレはオレのしたいようにする」
「あんたは勝手だ…!」
「お前もだろ」
「……」
「政哉から好き、先輩大好き。って、世間よりもオレしか見えなくなった時、言わせてみせるから構わねェ。けど、そこに至るまでオレもアプローチかけさせて貰うから」
「横暴だ!」

 大胆不敵な笑みが向かってくる。額をこつんと合わせられて眩暈がした。
 外で、恥ずかしすぎる。知り合いに見られたら、怖い。複雑なおれの心境なんか一切無視した様子の志岐伊織は「政哉」と、おれの名を呼んだ。
 
 平凡街道から足を踏み外したことがなかったのに、おれはいつからこんな風になったのだろうか。
 太もも辺りに放置されていた手に、先輩の手が絡んできた。一本一本指を縫うように入り込んできた手に志岐先輩は力を入れる。
 おれは、拒絶はしないけど力は入れられない。
 怖いんだ。好きよりも怖さがあって仕方が無かった。

 人を好きになるのも、人に好きになられるのも、こんな綺麗な先輩を見るのも、こんなに胸が痛いのも、こんなに親の事を考えたのも、こんなに禁忌を想った事も。

 なにもかもが、はじめてだった。



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