昼休み。

 恒例になりつつある空教室に向かう前に、政哉センパイ。と、おれを呼ぶ後輩の姿が目に入った。黒髪のツンツン頭の春樹は呑気な笑みを浮かべていた。
 その隣には色素の薄い髪に小柄な体の少年がいる。和泉と呼べば、一瞬だけ瞳を揺らして彼は頭を下げた。
 弁当とペットボトルを持っていつも使ってる空教室に向かう。クラスメイトも順応し、すっかりかなでちゃんやら、春樹と呼ばれ彼らはおれのクラス中の後輩だ。

「先輩…あの、あれから大丈夫でしたか?」
「あ、あぁ…。平気、志岐先輩も悪い人じゃないから」
「そうじゃなくて、あの、そういう意味じゃなくて、ですね」

 歯切れの悪い和泉を見ていたら「なんでもないです」と、実に尻すぼみな声音で言われた。
 和泉の様子はよく分からないけど、とりあえず和泉は志岐先輩との事は言わない方がいいだろう。だって、和泉は志岐先輩が好きなんだし。
 あの先輩も、不思議だ。
 どう見ても女の子にしか見えない和泉に、どう見てもその辺りの村人Mみたいな存在のおれ。和泉はやり方がアレだったけど、キスするなら…絶対こっちだろ。
 じっと和泉の唇を眺める。小さくて、ふんわりしてて、柔らかそう。触れたら絶対気持ちいいのはこっちだ。

「…あの、先輩?」
「和泉ってさぁ……ちゅーしたら、気持ち良さそうだよな」
「なっ!」
「政哉ぁ!?」
「センパイっ!?」
「………あ? ええ!? あ、いや、そういう意味じゃないからな! って、そういう意味っていうのはあれだけどさ!」

 おれ、今何言った!?
 真っ赤な顔で俯いているは和泉は可愛いけど、そういう意味の可愛いじゃなくて、後輩として可愛いって意味だ!
 大体和泉とキスするなんてありえないだろ!
 こいつは志岐先輩が好きだし、おれみたいな奴が本来近づける人間じゃないしっ!
 ごめん、本当ごめんな! 廊下で一年に平謝りする二年生の構図はおかしいものだったが、おれは一切気づかず、おれの周囲の人間も気づかなかった。

「政哉…お前和泉くんにまで……」
「誤解を生む言い方はやめろ!」
「お、おれは政哉センパイ応援しますよ!」
「春樹ィ…! 素で言われたらどうすりゃいいんだよ!」
「えっと、俺はどうすれば?」
「どうもしなくていいよ和泉!」

 目の前の事しか見えなくて、半ばパニックだった。後輩にちゅーしたら気持ち良さそうとか、どう考えても変態の考えだ。
 これが共学ならまだ良かったけど、柚木川でそんな発言は地雷にしかならない。
 誤解なんだけど、何をもって誤解と言えば良いのやら分からなくなっていた。
 説明するためには志岐先輩の事を言わなきゃいけなくて、でも和泉に言いたくなくて、ってか、本音を言えば誰にも言いたくなくて!
 半泣きに近い状態になったところで、悠一が普段使っている空教室の扉を開いた。

「政哉くんったらヘンターイ」
「悠一てっめぇ…!」
「欲求不満なんですか?」
「……春樹くんはさ、俺でも政哉に言えないこと案外言うよね」

 扉を閉めたところで溜息を吐き出せば、幾らか顔の赤味が取れた和泉が困ったようにおれに視線を向けた。
 さっきの発言が本気ではない事ぐらい、この後輩は知っている。
 居心地の悪い感覚を誤魔化すように最後にもう一度だけ軽く謝り、彼の頭をくしゃりと撫でた。

「じゃ、欲求不満の政哉はおいて飯食うか」
「……」
「ごめん。すみません。冗談です。だからその手を下ろせって!」

 机の上に行儀悪く座る悠一を尻目に、おれは窓に隣接する腰程度の高さの棚に腰を下ろした。
 窓を開くと音と風が入り込み、先ほどまでのふざけたやり取りを一掃するような清々しい空気が入ってくる。
 昼休みの穏やかな空気を感じ、漸く、日常を少しだけ取り戻せた気がした。



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