なんだいまの!
 なんだいまの!
 なんだいまの!
 なんだいまの!

 なんだ 今の。


 脇目も振らずに駆けるしか出来なかった。はっはっはっはっ、荒い息を口から吐き出しながら腕を思いきり振って、足を前にぐんと伸ばす。
 熱い。体の芯が燃えているように思えた。
 本当に意識しなければ分からない程度の、本当に、本当に、ささやか過ぎるふれあいは逆に心臓を煽った。吐息同士が近づいた感覚に、背筋が悪寒を伝えていた。
 授業中の廊下、おれの足音は五月蝿いものだけど階段を下りる音を注意する先生なんていなかった。
 屋上から一気に一階まで降りて、中庭に体を滑らせる。湿気と、影に出来た冷気の中ずるずると背中を壁に預けた。

 痛い。五月蝿い。痛い。喧しい。

 ブレザーとワイシャツ越しに心臓を掴んで大きく息を吐き出す。ぐっと息を詰めるように酸素を肺の中に放り込んでも、活性した体はあっという間に使い果たす。
 熱い。熱い。熱い。
 夏間近といっても梅雨なんて越えていない。猛暑になるだろうと言うお天気キャスターの言葉にうんざりしながら、おれはしっかりブレザーを着ている。
 体内から沸き出る熱はどんどん体の先の先まで侵食する。死にそうな熱に、眩暈がして、しゃがんだ先で盛大に息を吐き出した。


 された。間違いなく。おれは、志岐先輩に。
 震える指先でそこに恐る恐る伸ばした。唇と指先が微かに触れ合った瞬間、頭の中で聞こえた声に自分の手なのに大げさに放してしまった。

『政哉』
『――キスして、いいか?』

 どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう!
 キスされた。優しかった。掠めるものだった。どうしようもないほど、胸の奥がざわめいていた。
 何だか知らないけど泣けてくる。泣く理由もないし、さびしくとも、辛くもないのに。じわじわと滲む視界に思わず蹲った。

 なんで、あんな風に言ったんだろう。
 なんで、おれにキスなんかしたんだよ。
 ホモじゃないって言ったのに。おれにキスする時点で違うじゃねぇかよ!

 目を閉じて何かに耐える。でも、その間に浮かんでくるのは志岐先輩の言葉に、真剣な眼差しだった。真直ぐに射竦めるようなものだった。でも、怖くはなかった。
 おれを拘束していたわけじゃない。いつでも逃げられる力で先輩はおれの傍にいた。
 あの時逃げなかったのはおれで、あれから逃げたのがおれだ。
 視線を上に向ける。中庭からは屋上にいる志岐先輩の様子は見る事が出来ない。おれから逃げたのに、なんで、こんな、罪悪感みたいなものを感じるんだ。

 ファーストキスだった。

 ファーストキスは、女の子だけじゃなくて男だってそれなりに夢を持つ。
 放課後の教室。夕暮れの帰り道。公園での会話の途中。相合傘の狭い空間の中。可愛い女の子が隣にいて、リードするのは勿論おれ。
 けれど。
 現実は屋上の、晴れやかな空の下。授業をサボって二人きり。相手は男で先輩で。ふざけた雰囲気なんか一切無い空間の中、おれはされるがままだった。

 おれ………ホモなのか?
 嫌な予感にサッと顔が青ざめたと自分でもわかる。だって、そうじゃなかったら志岐先輩にキスされても、触られても平気だって理由に納得できる。
 この学校でホモやバイに対して差別はない。でも、やっぱり。自分がそうなるのは怖かった。
 世間の一般常識から踏み出した気がして、親を苦しめる気がして、怖かった。
 ホモだったら、おれは、裕人や悠一に同じ事をされても平気なのか? おれって、そういう人間なのか?

 じっと考えてみた。志岐先輩の姿を幼馴染の姿に変えて、クラスメイトの姿に変えて、うんうん唸りながら考えてみた。
 やっぱり、どこかが違う。志岐伊織だけが、どこか、違った。
 わっかんねェよ。自分が。あの人の、考えが。縋るように顔を上げたおれの視界の中には、雲一つない空が見えた。
 屋上にきっと、志岐先輩はまだいる。逃げたおれを追うこともなく、あの場所で何かを待っているんだろう。

 胸が痛い。苦しくて、張り裂けそうだ。
 握り締めたブレザーには、くしゃくしゃの皺が生まれていた。



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