おれはホモじゃない。先輩もホモじゃない。二人して断言できると思う。でも、第三者から見たおれたちは違うんだと思う。
 少なくとも、おれが第三者だったら否定する当事者に現実を突きつける。
 抱き合って、体舐められて、おれはあまり抵抗しなくて。それでどうして、そんな現実が無視できるんだ。

「痕、消えてら」
「っや…!」

 肩に納まっていた先輩の顔が下に降り、しゃがんだ志岐先輩はあの日と同じようにおれの腹に吸い付いた。赤い痕はもうない。痣もほとんど分からない。
 でも、全く同じ場所に志岐先輩は上書きをするように唇を寄せた。
 座れる感覚に腰がジンジンする。小さな電流が指の先まで走って、くすぐったい掌に体が戦慄く。
 力が、入らねぇ。腰が抜ける。触れてくる指の一本一本が脊髄を犯している感覚に身震いする。鼻に抜けるような息が零れた。

「志岐、せんぱ…」
「ん?」
「ほ、もじゃ…ない、のに」
「当たり前だろ。女可愛いじゃん」
「じゃあ!」

「じゃあ、なんでお前もヤられっぱなしなわけ?」

 立ち上がって、唇が触れそうな距離でその言葉を放たれた。どちらかが僅かでも動けば、触れる。触れてしまう。
 心臓がおかしな音を立てている中、頭だけは冷静だった。
 おれ、おれは。…どうして、志岐先輩を受け入れているんだろう。そういえば、なんで、こんな風に近くにいるんだろう。

 キスマークまでつけられて。これがもし、和山先輩だったらどうなんだろう。
 朝、頬にキスをされたことを思い出す。
 戯れのようなもので、志岐先輩とは明らかに意味が違うものだったけど、おれは確かにキモイって思ったし、全力で逃げようとした。
 でも明らかに今目の前にいる存在、志岐先輩が行っている行為の方が悪質で、男としてのプライドをへし折るようなものだ。
 明らかに情事の色を滲ませている眼差しをおれは向けられていて、意思表示をキッパリされている。どうして、逃げないのか。
 自分でも、理解できなかった。

「まあ、オレも自分で自分の気持ち認めてねェけど」
「……?」
「オレより鈍い政哉じゃ、今の時点じゃ無理だわな」
「馬鹿にしてます?」
「可愛いって言った。抱きしめたいと同義」
「辞書引いて勉強しなおしてください」
「オレの中の辞書じゃそうなってんだよ」

 くつくつと喉の奥で笑った志岐先輩はそのままおれを言葉通りに抱きしめた。腕ごと抱きしめられたおれはまるで拘束された様な形になる。
 たぶん、和泉との事がなければおれは平気で先輩を蹴っ飛ばすんだ。今まで仲良くしていた人と、喧嘩して、離れていて。こうしてまた触ってくれる。
 そういう過程があったからおれは先輩を邪険に出来ない。ぬくもりから逃げる事が出来ない。

 心臓が痛い。苦しい。辛い。

 先輩と離れていた間に感じていたものとは違う感覚が、胸の底から湧き出てきた。
 あったかいのに、痛い。気持ち良いのに苦しい。近づいているのに辛い。色んな感覚が湧き上がって、締め付けている。
 それでもおれの手は先輩に縋るようにブレザーを握っていた。梅雨を知らせる雲も、青くて近い屋上の空も、今のおれには見えなかった。
 近づいた顔に、柔らかい髪の毛が撫でるように頬に触れた。
 視線を上げれば、政哉。と、顔の真正面でおれの名前が紡がれた。


「――キスして、いいか?」


 小さな子どもが、悪戯を誰かに伝えるような楽しげな音で囁く声。
 脳味噌がどろりと、融けてしまう感覚がした。思考も、思想も、言葉も、行動も、すべてをその言葉に支配される。
 近づいた存在に、おれはまばたきすらする事が出来なかった。

 ファーストキスは、本当に、掠めるような、優しすぎるものだった。



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