(三人称視点) 屋上の風は生温いものだった。五月も終わりなんだと、妙な所で実感する。 梅雨の混ざり始めた湿った空気の中、仄かに煙草の香りが和泉の鼻先を撫でた。 煙草の匂いはあまり好きではなかったが、あの人のものだと思えば芳しいものに思えた。 「よぉ」 志岐、伊織。柚木川高校だけではなく、県内でも有名な不良だ。 和泉は不良の定義はよく分からない。 授業に出て、調理実習もして、学校行事に自ら参加する不良なんて聞いた事がない。 しかし、真正面に位置する場所で煙草を燻らせ、濡れ羽を思わせる漆黒の髪を雄々しく揺らている存在は確かに不良だ。 この威圧感を体感するのは何度目だろうか。 背筋が震える空気を味わっているのに、そんなことを考える。和泉は知らずにこくりと喉を上下させた。 「テメェ、何、企んでやがる」 紫煙が風に攫われる。昼休み独特の騒がしい男子校の空気は、屋上には微塵も存在していなかった。 獣を狩る寸前、静かな殺意を込めた行動のように煙草を手すりに押しつぶし、志岐はそのまま煙草を捨てた。 屋上の扉を背にし、いつでも逃げることが出来る位置に存在しているにも拘らず、和泉は体が動かなかった。 好きだと、思っている。 何度も、何度も、何度も。本当に何度も言った言葉。否定され続けた言葉。 それでも好きな人。どんな目に合わされても嫌うことなんて絶対に出来ない。 近づき、耳の横に拳をたたきつける音が響いた。コンクリートの壁が微かに崩れ、真正面の存在は獰猛な肉食獣の牙を向けていた。 和泉は牧野の気持ちを理解していた。目の前の獣の気持ちも理解していた。 好きだからこそ、理解できる感情に初めて悔しさからでも、苦しさからでも、嫉妬からでもなく。 切なくて泣きそうになった。 「牧野に、何した」 「なに、も」 「だったら、何でテメェといるんだよあの馬鹿は」 「それ、は」 和泉かなでは、牧野政哉を心底馬鹿だと思っている。それはたぶん、万人の意見だとも。 一体どこの誰が自分を襲えと言った人間に近づくのか。それは、和泉にはわからなかった。恋敵もどきで、何故か知らないが何度も謝られた。 悪いのは牧野じゃない。志岐にそんな決断をさせた自分だと和泉は思っている。 不良で、強くて、憧れで、姑息な手が嫌いだった人なんだ。そんな人が姑息な手段を使わずにいられなかった。 ずっと見ていて知っている。それでも、選ばれた政哉に嫉妬した。 大嫌いだと思えた。自分が。 「――牧野先輩は、お人好し、なんです」 「あァ?」 「ぼ、く……お、俺と、話が、したいって。あの人は、」 男が恋愛対象になった瞬間、いくら憧れだったとしても和泉はショックだった。自分に嫌悪した。 ホモなんて、ありえない。男を好きになるなんて、しかも、憧れで、遠い人を。 自分の見た目が嫌いなのに、大嫌いなのに、それを利用して、本当に自分が嫌いだった。男が好きなんて、気持ち悪い。この学校の生徒を見ても、そう、思ってた。 『凄いな』 「俺は、俺、は」 好きです。志岐先輩が、大好きです。殴られてもいい、蹴られても構わない。それでもずっと好きだった。でも、牧野に会って、話して、聞いていてくれて。 恥ずかしそうに、言ったんだ。そこまで人を好きになるのはすごい。方法は間違ってるけど、勇気がある。そういう部分を、尊敬するって。 男とか、女とか、好きになったら止められるものじゃない。和泉は、凄いな。 違うと、思った。 和泉は自分が卑怯で、最低だと思っている。目的の為なら手段を選ばない。そういう人間だと知っている。 政哉がそういう部分を無意識に知って、理解してくれていることを悟った。 敵わない。無理だ。この人を、嫌いになりきることはもう、無理だ。 「牧野先輩も、好きなんです」 「………」 「ごめんなさい、ごめ、ごめんなさっ……」 和泉の嗚咽が屋上で響く。 力なく和泉から離れた志岐は呆れた様に目の前の少年を見据え、小さく言葉を吐き出した。 「――ンだよ、それ…」 獣の慟哭は、唇から胃へと沈殿した。 |