「すみません、時間を頂いて」
「いいよ。次は好きな授業じゃないし」

 不思議な感覚だった。和泉かなで。志岐伊織のストーカーでおれを襲い、暴行を企てた主犯だ。そんな男が、今目の前にいる。
 一年だからか、彼はサボる場所をどこにするか迷っていたため、おれが空教室に連れてきた。頭上からは授業開始を知らせるチャイムが鳴り響いていた。
 通り過ぎる教師や、同属から身を潜めるためおれ達は床に腰を下ろし、壁に背を預ける。
 沈黙、沈黙、沈黙。重い、沈黙。


「――あの時は、すみませんでした」


 永劫続くかに思えた沈黙を破った人間は、和泉だった。人間三人分位の距離の空いた先、ちらりと彼を見たら俯いた姿勢だった。
 あの時とは、たぶん校舎裏での話だろう。
 すみませんで終わるような事ではないが、未遂だったためおれは何も言えずに和泉を見ることしか出来なかった。
 思えば、和泉はどうしてああまでして志岐伊織と付き合いたかったのだろう。
 じっと彼を見つめていればわかる。おれは女の子が好きだけど、和泉は男にモテるって。勿論、攻める方じゃなくて受ける方で。
 志岐伊織は確かに美形でかっこいいけど、和泉だったらそういう男でも好きになってくれる人間は多そうだ。いや、絶対いる。

「…和泉は、志岐いお――志岐先輩のどこを好きになったんだ」

 素朴なおれの疑問に、和泉はゆっくりと顔をあげてこちらを見た。
 以前も聞いた質問。あの時は体育館倉庫で、彼は激昂して言葉を連ねた。でも、今はそんな雰囲気が一切無い。
 おれの貧困な語彙じゃこいつの可愛さとか、綺麗さは表せない。
 ただ、今の和泉はどこか儚さも兼ね備えていて、瞬く間に消えてしまいそうだった。

「――憧れなんです。俺を、助けてくれた人だから」
「……助け?」
「俺は、最初から、男が好きだったわけじゃなくて、」

 小さな頃から、自分の見た目が大嫌いだった。ぼんやりと、和泉はそう言った。
 女の子みたいだと親戚や、学校で言われる。小さな身長、色素の薄い髪、別に外国の血を引いているわけでもないのに。
 好きな女の子が出来ても見た目のコンプレックスで、告白も出来なかった。
 大きくて、かっこよくて、自信のある人間になりたかった。
 平凡なおれには想像もできないコンプレックス。なんとなくは、理解できた。忘れがちだけど、こいつだって“男”なんだよな。

「中学のとき、志岐先輩に助けてもらった」

 見た目のせいか、よく絡まれていた。セクハラまがいの被害も何度か受けた。
 その日もゲームセンターで遊んでいたら、ガラの悪そうな数人が声をかけてきて、見た目の事を言われた。いつもの様に耐えていたら。
 淡々と語り続ける和泉の言葉が一瞬止まった。


「理想の人が、いたんです。なりたい人が」


 圧倒的な力、獰猛な獣を彷彿させる眼差し。シニカルな笑みはいつまでも忘れられずに心に残る。一瞬にして場を支配する存在感。
 始まりは、憧憬だった。
 他の一年と同じ感情。戸惑った、恋に変わった瞬間なんてわからない。女が好きだった、自分の見た目が嫌いだから、男を好きになるなんてありえなかった。

「俺は、好きなんです。好きで、好きで、志岐先輩が、」

 俯いて、何かを堪えるように拳を作った和泉を見た。
 おれは誰かを好きになったことなんて一度も無い。だから、和泉の気持ちはわからなかった。
 話を聞いても、理解できても、わからなかった。
 きっと和泉は志岐が自分を嵌めた事を知っていて、それでも嫌いになれない。
 ストーカーなんてなるつもり、なかったんだろう。おれを巻き込んで、和泉は罪悪感を覚えたのだろうか? わからなかった。

 ただ、もう少し。もう少しだけ早く、和泉と話ができていればと思った。



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