乾いた音が路地裏から響く。皮膚と皮膚が合わさり、時折混ざる水音が正常ではない音を伝え、まともな神経の持ち主はとても聞ける音ではない。 薄暗い世界の中、か細く聞こえる息の合間に呻き声が入り込んでくる。カーライトが路地裏を刹那的に照らせば暗闇に赤色が煌いた。 シルエットとして浮かび上がった立ち尽くす一人の存在は、忌々しげに足元の人間を踏みつけ、指先についていた血痕を振り払った。 通りからは、明るい人の行き交う言葉が届いている。 一歩迷い込んだ先は隔絶した世界だ。光など一寸も届かぬような空間で、静かに言葉として零れ落ちた音が響いた。 「うぜぇ」 宵闇に消える漆黒の髪に、手についた赤い血液よりも明るい赤のメッシュが微かにカーライトに瞬いた。 揺れた影はそのまま吸い込まれるように更に深い暗闇に誘われる。 残ったものは、呻き声、赤色、黒色、どす黒い感情。 五月の風も徐々に変化を始め、落ちる桜の花びらに濃緑の葉が増え始める。 緑が透ける木々の合間を通った先、柚木川高校と石に彫られている学校名を視界に入れ、おれはネクタイを緩めながら校舎に入った。 靴箱には似たような状況の生徒が多い。初夏の空気が混ざり始め、梅雨独特の湿り気が空気に帯び始めている。 上がった気温と上がった湿度、その中にはブレザーを脇に抱えている者もいた。おれはまだある程度暑さには我慢できるけど、やっぱり暑い。 ネクタイをもう少し緩めれば「おはよー」と、呑気におれに話しかけてきた奴が居た。クラスメイトの悠一は暑さにうんざりした顔で、下敷きを団扇代わりにしていた。 「政哉ぁ 英語のプリント手ぇつけた?」 「一応。でもさ、問5が分からなくてさ」 「神! それでもいいから写させて下さい!」 「一問500円」 「汚ッ!」 おれの日常は、あの体育祭から元通りになった。和泉かなでにも、和山那都にも、志岐伊織にも一切関わっていない。 これでいい。これが普通。これがおれの日常。取り戻した安穏。もう二度と、あのメンバーには関わりたくない。 何よりも、志岐伊織には会いたくなかった。 今思い出しても腹立たしい、苛々する。よく考えなくてもおれにしていたあのスキンシップは、あの時和泉に見せても大して動揺しないように鍛えていたんだろう。 おれの日常に志岐伊織は必要ない。数日は登下校中に違和感があったけど、それもすぐに消えた。消し去った。 「そーだ、政哉志岐先輩と別れたって言ってたけどさ」 「正確には付き合ってもないけど」 「まあいいじゃん。あのさ、志岐先輩最近荒れてるって知ってた?」 知ってる。絶対に切れない縁、おれはあの先輩と同じ学校に通っている。 同校だと噂はいやでも耳に入る。どこで喧嘩したとか、病院送りにしたとか、でもそんな噂、おれとそういう関係になる前だって普通にあったものだ。 簡単に返事を返せばそれ以上突っ込まれることはなかった。 もう、おれはあの人にも、あの周囲の人間にも関わりたくなんかない。たとえ、どこか喪失感があったとしても、だ。 おれはおれの日常を謳歌するし、あの人も勝手に行動すればいい。既に関係ないのだから。 「そういやさ、政哉のマスターって退院した?」 「え、あぁ…。でも、しばらくは安静らしい」 志岐伊織の話題は避けて欲しいという考えが伝わったのか、悠一は鮮やかに話を切り替えた。 悠一の言う「マスター」はおれの通っているバイト先のオーナーだ。まあ、客にも従業員にもマスターって呼ばれている。本人もその方が良いらしい。 そのマスターが怪我をしたのは大体二ヶ月前。まだ若いけど、酒に酔って前後不覚になり階段から落ちたらしい。 両足骨折、右手も折れた。奥さんは激怒で、おれは電話でそれを教えられた。 マスターがいないと店も開くことが出来ないから、しばらくバイトには通えなかった。でも、今週から店を開店するらしい。 悠一はそこの店の常連…と、いうか昔馴染みらしい。だからマスターとも面識があって、怪我の心配をしたり、事故で爆笑して忙しかった。 「マスターが怪我したからさ、その間に店の改装もしたらしい」 「相変わらず抜け目ねぇ!」 「おれも明日バイトあるからさ、正直楽しみ」 「遊び行こうかぁ?」 「来るなうっぜ」 そうだ、おれの日常はこんなものだ。高校生の日常なんて大半が馬鹿話で、笑い話で、お気楽思考。 あの人がいた空間がおかしいかった。どうでもいい、どうでもいい筈なんだ。 だから、一刻も早く忘れたかった。この、どうしようもない、虚しさを。 |