頭の心から急速に何かが冷えていく感覚と、今目の前にいる人の本質を垣間見た気がした。
 志岐伊織は、鉢合わせを狙ったんだ。和泉がおれ達が一緒にいるところに来るように考えたんだ。
 暴力を振るっても近づいて、言葉でも近づいてくる。だったら、目の前で見せるだけ。好きだと言った存在にだけ見せる顔を、ほんの僅かでも相手に見せる。
 単純だけど、一番傷つく方法だ。
 最低だ、この男。ストーカーの被害者だという事は理解できている、でも、人の気持ちを弄びながら笑っていた。逆光でも見える表情に、思わず歯を噛み締めた。

「牧野にも被害ないし、オレにもこれ以上被害が無い。それで何が悪いんだよ」
「だからって、おれを利用するようなことして! 相手騙して! ふざけんな!」
「はァ? 牧野さ、忘れてるかもしれねェけど、お前だってあいつからしたら加害者なんだよ」

 嘲笑と共に言われた言葉に息を呑んだ。和泉かなでにとって、おれは恋敵だ。志岐伊織の寵愛を受けている存在。
 それだけで、おれは強姦されそうになったし、暴力も振るわれている。
 言葉を詰めたおれに志岐先輩が近づく。猛禽類を思わせる鋭い眼差しに、眼差しの奥から感じたことのない空気を察する。

 誰だろうか、この人は。
 さっきまで笑っていたのは。
 一体、誰だったのだろうか。

「オレはな、お前を守ったんだ」
「違う!!」

 ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな!!
 遠くで体育祭を楽しむ同級生、後輩、先輩の声が響いている中、狭い体育倉庫の中でおれの五月蝿い言葉が反響する。
 シニカルな笑みではなく、ニヒルな笑みを浮かべた存在はじっとこちらを見据える。
 違う。この人は、違う。確かにおれは守られた。確かにおれも加害者だ。確かにおれはこの人を慕っていた。

「おれは、さっきみたいなやり方は最低だと思う。志岐先輩の行動は、人の気持ちを考えてない!」
「ストーカー被害者が、加害者の気持ちを考える方が無理だ」
「それでも! それでも…なんで、もっと和泉を傷つけないやり方もあったはずじゃないですか!」

 出会ってからまだ一ヶ月も経っていない。和泉に襲われたのは一週間前で、まだ、おれ達が付き合っている嘘を和泉は疑っていた。
 志岐先輩とおれはそれなりに友好的な関係で、付き合っていなくても、傍にいて大丈夫だと思える関係だった。
 あと一ヶ月とか、二ヶ月とか、一緒にいたら和泉だって諦めたかもしれない。もしかしたら、諦めていたのかもしれない。諦めきれずに、あんな行動をしたのかもしれない。
 拳を握り締め、歯を噛み締め、俯けばうざそうに舌打ちをする音が響いた。

「――面倒だな、テメェも」
「……おれは先輩に幻滅しました」
「うざってぇ。幻想抱くのも勝手だけど、根底忘れてんじゃねぇよ」

 目の前の存在は志岐伊織。
 柚木川、男子校、最大の欠点であり、最大の特徴。
 地域一帯に名前を知られている存在。
 不良という存在を、おれは失念してしまっていた。

 重い音が足元で静かに響く。志岐伊織が跳び箱を蹴飛ばし、それがマットの上に落下した音だった。
 砂埃が暗闇で舞い、猛禽類が獲物を狩る際の眼差し――スッと細められた双眸――で、おれは睨まれた。初めて向けられた殺意だった。


「オレはお前を利用して、お前はオレに利用される。それだけだ」


 破った紙を踏みしめ、志岐伊織はそのまま背を向け体育倉庫から足を出した。
 残されて、一人、重い息を吐き出し蹲る。
 最低だ、最悪だ、なんて奴だ。あんな奴を今までいい人だとか、凄い人だとか、欠片でも思っていた自分が嫌になった。所詮志岐伊織は、そういう存在だったんだ。
 授業に出たり、料理が作れたり、普通に笑ったり、気さくだったり。そんなもの所詮、おれを騙すための、こういう風にするための布陣だったのかもしれない。
 不良なんか大嫌いだ、志岐伊織なんて大嫌いだ、大嫌いなのに。

 背を向けられたことが、あんな目を向けられたことが、辛くて、苦しくて、悲しくて、切なくてたまらない自分が、情けなかった。



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