いなく、なった?
 そのことを理解した時には、既に先輩はおれから離れて跳び箱を背もたれに携帯を弄っていた。

「……和泉、は…」
「さぁ? ま、あんな場面見たらもう近づかねぇだろ」
「あんな……」

 おれと、先輩が抱き合ってるというか、一方的に触られている場面?
 逃げるように去っていった和泉の姿を思い出す。そりゃ、好きな人が誰かとそういう場面だったらショック受けるよな。
 じっと扉に視線を向けていると、呆れきった声音が背から届いてきた。

「放っておけば? ここに呼びつけたのもあいつだろ。お前、痛い目にあっていたかもしれねぇし」
「でも…和泉一人で来てましたよ」
「……お人好しも結構だけど、あんまり信用しない方がいいと思うぜ」

 先輩の言葉の意味も理解できる。けど、和泉に対して罪悪感はやっぱり生まれてしまう。
 そりゃあ腹殴られたし、脅されたけど、それって先輩が好きだからしたことで、志岐先輩からしたらウザイだけの後輩だったと思う。
 でも和泉は男で、普通に女が好きだって言ってた先輩に告白する志岐先輩に告白したことは凄いと思ってる。
 そういうパワーがあったから、ストーカーに近い行為をしていたのかもしれないけど、でも、流石にすこし可哀相だ。

「あの、おれちょっと」
「探してくるって? 馬鹿じゃねぇの。今のお前が行けばただの嫌味だろ」

 冷めた眼差しを一直線に向けられる。今まで向けられた何よりも冷ややかだ。ぞっとする感覚が、静かに背筋を伝う。
 変だ。先輩は和泉を嫌っていたけど、こんなあからさまにおれに感情を向けなかった。
 この間、おれが喧嘩を売られたせいでこうなってしまったのだろうか。
 じっと先輩を見ていたら、体育倉庫に響くような音で舌打ちが聞こえた。携帯をジャージのポケットに仕舞いこみ、先輩はおれに近づいてくる。
 怖い。最初に会ったとき『志岐伊織』として怖かったけど、違う。あんな感じじゃない。純粋に、志岐先輩として怖い。

「お前、オレに何か指図したいわけ? 和泉はたぶんこれからオレを付け回さないし、お前にも干渉しねぇだろ。それでOK、万々歳。で、満足しないわけ?」

 ぐっと顔を近づけられる。不快そうに歪められた眉根が寄っている。
 満足とか、万々歳とか、そういう問題じゃないけど、先輩の気持ちだっておれは分かる。
 ぐっと言いたい事を飲み込んで、無言のままでいると盛大な溜息が耳に入り込んだ。
 重苦しい空気。今まで感じたことのない感覚が双肩に圧し掛かった。

「……おれ、昼飯食ってきます」
「おー」

 これ以上ここにいたくはない。志岐先輩の気持ちも、和泉の気持ちもおれは理解できる。
 だから先輩のした行動もわかるし、和泉がどれだけ傷ついたのかもなんとかくわかった。逃げるように体育倉庫から足を伸ばそうとしたら、かさりと足元で紙が引っかかった。
 さっきおれが持ってた手紙の欠片が散らばっている。
 これも体育祭が終わった後、委員会の連中が掃除をすると思う。マットの上で破片となった紙を手に取った。
 そして、紙くずの向こう側、扉の近くに見えたものは完全な手紙の形をした一枚のものだった。


「――面倒な物残したな、和泉」


 背後から聞こえてきた声に振り向いた。笑っていない顔で先輩はおれの視線の先にあったものに手を伸ばす。
 おれが貰ったものと全く同じそれは、ぐしゃぐしゃに丸められていた。
 喉の奥でなにか言葉が引っかかる。その間、先輩はおれの隣を通り過ぎて紙を拾う。逆光で表情がよくわからなかったけど、なんとなく、理解した。
 元々、おれは志岐先輩の勝手に巻き込まれて彼氏なんて言われている。
 忘れがちだけど、この人は不良で、しかも、人の気持ちよりも自分を優先する。おれを呼び出したとき、志岐先輩は同じ手段を使った。

「そ、れ……」
「ああ、そうだ。お前を呼び出したのも、あいつを呼び出したのも――オレだ」

 シニカルな笑みで言葉をつける男に、体が少し戦慄いた。



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