「そういや…家の人いつ帰って来るんスか? おれ、帰らないとまずくないッスか?」

 手当てという名のセクハラを受ける見構えをしていた数分前、呆気なく終わったそれに、制服のズボンを穿きながら時計を見れば既に7時を回っていた。女の子でもないし、高校生のおれはあまり親に心配されないが、晩飯の有無で怒られたりする。
 親の連絡はメールにするか電話にするか悩みながら、不意に帰って来る事のない先輩の両親に疑問が宿った。
 普通の家なら共働きでもどちらかは帰ってきていい筈だ。腹の減る年代の子ども、ぐぅ。自己主張する胃袋に手を置けば、先輩は薬箱を片付けながらああ。と、事も無げに言い放った。

「親父たちインドで仕事してんだよ」
「インド?」
「ああ。まあ、お袋は付き添いみたいなもんだけど。オレは日本に残りたかったからさ」

 父親が外資系の会社に勤めているらしく、仕事にしか興味のない人間で、母親はそんな父親がもしも一人で暮らせば仕事に追われて死んでしまうと思ったらしい。マンションは手放す気もなかったし、五年で戻ってくるから管理者を兼ねて息子を放置したそうだ。
 親戚に預けるよりも息子ならば特に金銭的問題もないと判断したのだろう。高校一年のときからだな。と、思い出すように話され、少し先輩を尊敬した。おれ、一人暮らしには憧れるけど絶対無理だから。

「だからさ、牧野も泊まってけよ。そのつもりだったし、今日」
「え、いや…。悪いッスよ」
「飯は食うだろ? 盛大な腹の音がメロディー生み出してた」

 豪快に笑い、先輩はおれの返事も聞かずにキッチンに向かってしまった。どこまでも我が道を行く人だな…。すでに志岐先輩のペースに慣れつつあることに身震いしたが、確かにこの制服では帰れないだろう。
 ボタン縫い付ければ着れない事もないが…成績表を思い出す。中学の家庭科の評価は3だった。可もなく不可もないが、裁縫はからっきしで料理もからっきし。ペーパーテストに食育の授業の賜物だ。
 志岐先輩、料理も巧いのだろうか? 調理実習に出ている黒髪赤メッシュを想像する。美形で目つきの悪い男がマドレーヌを焼く姿…。シュールだ。エプロン必須の調理実習では更にシュールだ。

「牧野って好き嫌いあるか?」
「甘いの嫌いッス。あと、魚は食べるのが苦手」
「ははっガキかよ」
「……先輩は無いッスか、嫌いなもの」
「ある。でも秘密」
「ずっりぃの!」
「そのうち分かるんじゃねぇの?」

 ジュッ。何かを炒める音に腹を刺激する香りが届いたので、おそるおそるキッチンに足を踏み入れてみたら、前髪をピンで留めている先輩の姿があった。うっわぁ…。これはあれだな、学園の男共に売ったら万単位で売れるな、確実に。
 普段は赤いメッシュで隠れている額が覗いている。アホ毛が少しだけ立っている横顔。真っ黒なエプロンをつけてフライパンを操っている先輩は男のおれでもかっこいいって思う。女の子ならもしかしたら、可愛いとか思うかもしれない。
 つーか、料理が出来て、えろくて、怒らせなかったら気さくな不良って……女の子に普通にモテるよなぁ。えろさえなければおれも何だかんだ、いい先輩だって思いかけていた。
 おれに気づいた先輩は、皿取って。と、背にある食器棚に視線を寄越す。たくさん並んでいるそこから何を取ればいいのかわからないから、適当に取れば先輩は何も言わずに皿の上にオレンジのものを置いた。

「ケチャップライス?」
「気が早い。おいこら、つまみ食いすんな」
「うっま! 先輩これすっげぇ美味い! すげぇ! おれのお袋より美味いッス!」
「……まあ、いいけど」

 苦笑を浮かべ、先輩は冷蔵庫から卵を取り出し器用に片手で割り始めた。両手で割っても卵の殻が絶対に黄色い海に沈みこむおれとは大違いだ。一人暮らしで料理は手馴れてしまったのだろう。先輩は鼻唄交じりに卵を混ぜ始めた。
 ここまでくれば流石におれだってわかる。オムライスを先輩は作るんだろう。調理実習で一回作った事がある。卵は破れてこげた匂いのしたオムライス。同じグループの人間は笑顔で「牧野邪魔」と、言い放ったあの日のショックは忘れられない。

「先輩って、女の子にすっげぇモテそうですね。色んな面で」
「ついでに言えば、男にもな」

 半分だけ卵を流し込み、火加減を調節している先輩は事も無げに言う。こういう部分が男前だ。ついでに言えば自信家。

「おら、そこにいても邪魔だ。テーブル拭いて準備しろ欠食児童」
「(誰が児童だ!)」

 でも、腹がおれの代わりに合図をしてしまったからおれも否定はせず、先輩の言葉に従うしかなかった。背を向けたら先輩がくつくつ笑っていたけど気にしないことにしよう。



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