水滴が髪を滑る。湯気で白んだ浴室の中、おれは絶望に嘆いていた。
 おれ…あの、あの志岐先輩に馬鹿とか、エロ魔人とか、い、い、言わなかった…か? 妄想ではなく、確実に存在する記憶に眩暈がする。
 いっそ気のせいであればいいのに、思い出せてしまう光景は先ほどの事で、唇を噛み締めて悲鳴に耐えた。家だったら絶叫している。ここが志岐先輩の家だから絶叫できないだけだ。
 罵詈雑言をプレゼントしただけの記憶ならば良かったのだけど、あの志岐先輩の垂れ流しフェロモンにあてられて、変な空気になったこともよみがえる。何がしたかったんだ、あの人。
 鏡に映りこんだ薄気味悪い色の腹と、ニ三紅い花弁が踊る痕に嫌悪を覚えた。どうしてこう、おれは変な事に巻き込まれるのだろうか。元凶は志岐先輩なのだけど、何であの先輩はおれを気に入っているのか分からない。
 あんな態度を見せられたら、おれだって先輩はおれを気に入っている事を自覚する。心配そうに傷を見ていたことも知っている。でも、所詮おれ達は仮で表されるべき間柄だ。

 意味わかんねぇ、あの人。なにを、どうしたいわけ?

 シャワーの栓を捻りお湯を止めた。髪から滴り落ちる水分が浴室のタイルに音も無く落ちていく様子をしばらく眺め、体が冷め切らないうちに脱衣所へと踵を返した。
 置いているタオルを手にし、顔を拭く。腕を拭く最中に喧嘩で出来た擦り傷に、出来るだけ触れないように布地を当てる。痛みに思わず顔が歪むけど、濡れたままだと滴でもっと沁みるだけだ。
 ある程度拭き終わり、タオルを肩にかけ服に手を伸ばした。パンツは気持ち悪いけどそのまま自分の履いて、下は制服でいいだろう。上は先輩の用意したパーカーがあった。

「…でっけぇ」

 服の袖に手を入れた時点で分かってたけどやっぱり大きい。おれが平均より少し、少し小さくて先輩が平均よりかなり大きい。それだけでこんなにも体格差が出てしまうのだろうか。
 指先の覗くパーカーの袖、彼女が着たら最高だろ! と、思わせるような膝上のミニスカートみたいな状況になっている裾。今からでも牛乳を馬鹿みたいに飲んだら大きくなるよ。言い聞かせ、タオルを洗濯機に放り込み脱衣所から足を出した。

「シャ、シャワーありがとうございました…」
「おー。…あれ、牧野下そのまま? パンツも?」
「え、あぁ…まぁ」

 リビングに戻れば先輩はブレザーを脱いで上だけ部屋着になっていた。割と大きなテレビには夕方の再放送ドラマが流れている最中だ。机の上にはマグカップがひとつあり、周囲には紅茶の香りが漂っていた。
 先輩は上から下までおれを見て笑いを堪える。先ほどの事もあり、この人の行動、表情一つがどうにもおれの神経を逆なでしているようにしか思えない。じっと見つめ返せば先輩はソファから立ち上がり近づいてきた。
 割合気さくで、話しやすい人だと思う。でも、おれを助けてくれた暴力であっという間に五人を倒すことをしたのも先輩だ。脱衣所でおれを気後れさせたのも先輩だ。やっぱり、どこか怖い。

「警戒心むき出しの姿は好きだな。無警戒より断然そそられる」
「なっ…! 先輩は、ノーマルなんでしょ!」
「ノーマルだ。当たり前だろ。でもまあ……人の嫌がる顔は男女ともに見たいだろ?」

 ど…どえす…! むしろ鬼畜と言った方が正しいのか!? これだったら、明らかに見た目ヤンキーで、不良で、怖い顔で、無口だったりしたほうがいい。
 志岐先輩は緩やかに相手の中に入り込み、その中で徐々に侵食する。
 濡れたおれの髪に指先を伸ばし、長いパーカーの裾を持ち上げながら腹を見ようとする先輩の手を止めるため、色々なものを振り払い、志岐先輩の手首を掴めばフッと鼓膜に息を吹きかけられた。

「ひっ」
「おとなしくしようなー」
「や、めろ!」
「だから、ノーマルだっつの!」

 言葉と行動が合ってないじゃないか! 腹を見るだけだと思った手は器用に片手でベルトを外していた。ドラマの世界の台詞と、下半身から聞こえる金属音に目の奥がチカチカする。
 コイツ本当にノーマルなのか? 明らかに手つきが不自然じゃないのか? そっちの経験が皆無なせいで全然わからない。
 緩められたベルトの先、止め具を外し、やけに耳に入るジッパーの音がジィィと、響く。腰周りが一気に緩くなって股の下がスースーし始めた。

「脱げるじゃ、ないッスか!」
「脱がすんだって。だいじょぶ、だいじょぶ。パンツ見えない丈のサイズの服だろ」
「(お母さあああああん! 姉ちゃぁぁぁぁぁん! 助けて!!)」

 涙目で絶えるしかないのか。おれはここで後ろの純潔を奪われてしまうのだろうか。怖いし、辛いし、腹が立つし、情けない。ぐっと拳を握り締めると「ばぁか」と、馴染みある先輩の声がして、先輩は自分の額とおれの額をくっつけた。
 赤いメッシュが視界に入り込む。少しだけばつの悪そうな顔をした志岐先輩が真正面にいる。
 眉根を寄せた先輩は困ったように笑って、あやすようにぽんぽんとおれの背中を軽く叩いた。

「虐めすぎたか?」
「………」
「…ったく、仕方ないだろ。発散させろよ少しは。折角オレがあんなに忠告したのに牧野危ない目にあわせるし、お前それでも平気そうな顔してるし、あいつら想像よりも速く動き出すし」


 おまえが、襲われてるところ見てオレがあいつらだけに怒ったと思ったわけ?
 おまえが、無警戒でオレの家に来てオレがなにも思ってないって思ったわけ?
 おまえが、警戒もって、オレの言葉信じてればあんな風にならなかったのに。


「せんぱ、い?」
「オレばっかり動揺するのは癪なんだよ。ノーマルだって言ってんだろ。それに、大事な後輩襲うかよ。おまえの嫌がる顔は好きだけどな」

 言い、放れた先輩はおれの前髪に軽く手を振れ笑った。「足も怪我してるから脱がしたんだよ」薬箱をリビングのテーブルに用意している先輩を見て、ほっと息を吐き出して、同時にさっきの先輩の目を思い出した。
 じっと射竦めるような眼差しで、その奥には安堵だとか、怒りだとか色んなものがあった。胸が五月蝿い。心臓が変な感じだ。撫でられた前髪を自分の手で触り、先輩の行動を無かったことにした。



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