「ソレが、誰の玩具か分かってんのか、てめぇら」

 夕日が照りつける中、志岐先輩の黒髪が艶やかな色を放つ。色気と怒気を振り撒きながら睨みつけてくる眼光に、思わず息を呑んだ。頭の中では誰が玩具だとか、あんたが原因だとか罵詈雑言が広がっているのに、一切口からこぼれる事がなかった。
 そんな事を言う前に、おれの上に乗っていた男は先輩の蹴り一発で地面の上に転がってしまったからだ。

「ったく、教室まで迎えに行けばゴミ捨て行ってるとか言われるし、来たら来たで襲われてるしよ」
「ご、ごめんなさ…」
「ばぁか。なんっで牧野が謝るんだっつの」

 蹴りを入れられた腹を見られると、先輩は分かりやすいほど眉根を寄せた。麗しいお顔に皺が刻まれていますよ先輩。軽口を叩く前に、先輩は振り返り、青ざめた顔をしている四人組に視線を向けた。一人は未だに地面に突っ伏している。
 コキ、ボキ。指をわかりやすく鳴らし、舌打ちをする。蹴られた男が情けないうめき声をあげ、立ち上がろうとしていた。おれを守るように背を向け、先輩は準備体操をするように首を回し、真正面を見据えた。

「オレのモンに手ェ出そうとした覚悟、見せてみな」

 そこから先は、まさに一方的なものだった。五対一という圧倒的不利な中、先輩は嬉々として笑みを浮かべながらノリノリで手を出し、足を出していた。人間が人間を殴る乾いた音、呻き声、明らかにおれが入れられた蹴りよりも重い音がしていた。
 残されたのは地面に倒れている五人に、呆気にとられたおれ一人だ。…強い強いと聞いていたが、目の前で喧嘩を見たらその強さが他の人間と違うことが分かる。腹の痛みも忘れて見入っていると志岐先輩は身をかがめ、小さく嘆息しおれの真正面に腰を下ろした。

「あーあ…。くそ、腹に痣出来てんじゃねぇか」
「いっづぅ!」
「服も泥だらけだしよォ、しかも半泣きだし」
「生理的なもんです! 腹蹴られりゃ涙も出ますっての!」

 大声でツッコミを入れれば腹に響き思わず悶絶する。先輩のあきれた声を耳に入れながら痛みに耐えていると、志岐先輩はおれの頭の上に自分の制服を被せた。微かに甘い香りがする。
 いや、予想したような香水じゃなくて……調理実習じゃねぇの、これ。砂糖の甘い香りに吐きそうになった。どうやら今日の三年の調理実習はマドレーヌらしい。この先輩数学だけじゃなくて調理実習にも参加するのか!?

「被ってろ。明らかにこの学校でシャツ全開だと犯られたようにしか見えねぇ」
「……やっぱ、先輩ってお人好しッスね」
「ばぁか。おまえを巻き込んだのオレ。巻き込まれたのおまえ。牧野はオレを責めるのが正解なんだよ」

 志岐先輩の言う通りだ。でもおれは、先輩がこうして助けてくれることを知っていたし、こいつらが倒されることを知ってた。
 顔、綺麗で怖いくせに心配そうに見てくる。腹痛いし、押し倒された時にぶつけた背中も痛い。でも、志岐先輩のこんな顔を見たら、妙に得をした感覚を得られた。自分でも変だと思ったけど気にしないでおこう。
 それはそうと…この服どうしよう。ボタンの弾け飛んだ情けないシャツを眺め、これは母さんと姉ちゃんが見たら怒り狂うだろうな…なんて考えた。

「牧野、その状態で家帰って平気か? 親大丈夫か?」
「……たぶん?」
「大丈夫そうじゃねぇし。…おっし、じゃあオレの家来いよ」

 ケラケラ笑いながら言った先輩に眩暈がした。いやいやいや! さすがにそれは無理だろ! 倒れている五人組を前にしたときより、和泉を前にしたときよりも強烈な眩暈が襲った気がした。



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