教室を一歩出ると、空気は変化する。以前同じクラスだった奴はどこ吹く風だが、普通科在住のおれには商業科と特待生の視線は結構きついものだった。屋上に向かうだけでこれだ、いつかおれ、死ぬんじゃないのか? 視線で。
 馬鹿なことを思いながら階段を上がる。どうやら先輩の言うとおり、後輩は変な噂を流しているようだ。どんな噂かまでは知らないし、知りたくもないのだが集まってくる視線はとことん面倒だった。
 よくもまあ先輩は普段からこんなものを浴びて平気なものだ。胃の辺りがキリキリする感覚を感じ、腹に手を添えてみたが何の効果もなかった。
 三階まで階段で上がり、四階の先にある場所を目指す。一度一年の廊下に足を踏み入れなければならないのだが、二年の廊下に比べて殺気の様なものが増えていたのは気のせいであって欲しい。
 胃どころか、内臓ぜんぶが悲鳴を浴びそうな中、おれはやっとの思いで屋上に足を踏み入れた。

「……え」
「………あ、牧野」

 びゅう、と荒い風が一陣舞う。その中にいたのは志岐先輩ではなく、志岐先輩の友人である和山先輩だった。
 青い空を背負う銀色の髪は日光を浴びてキラキラと反射している。この間見たときはよく見られなかったが、凄く綺麗な髪をしていると思った。
 先輩は口にストローを銜え、手には飲むヨーグルトを持っていた。…甘党なのだろうか? 前はいちごオレを飲んでいたと思う。顔に似合わない飲み物は、かなり珍妙なものだった。

「あの、志岐先輩は…?」
「授業」
「え……授業?」
「数学好きなんだ、志岐。答えが明確なもの、好きだから」

 和山先輩の言葉を聞いても納得は出来ない。いや、だからって不良が授業に出るのか? 想像してみたが、全然浮かばなかった。
 うぅん? と、唸ってみると和山先輩は自分の隣に手を置き「おいで」と、手を振る。なんだこの、ゆったりした時間の流れ。以前会ったときも怖さであまり考えていなかったが、和山先輩はスローリーな人だという印象がある。
 恐る恐る近づけば、先輩はおれを気にした様子もなくじっと空を見上げていた。碧空に、銀色は爽やか過ぎる色で似合い過ぎていた。
 体育の時間なのか、生徒が運動場に向かう姿が屋上から見える。
 体力測定も終わった春の授業は、体育祭の練習がメインである。リレーに出るやつは強制的に走らされ、障害物リレーに出るやつはネットの下を潜らされる。
 見えたものに視線を少し動かしていると「牧野」と、おれを呼ぶ和山先輩の声が耳に入ってきた。すっと視線の位置を変えれば先輩は相変わらず空を見つめていた。

「志岐が暴れて、ごめんな」
「……え、いや」
「志岐って、俺とは別の意味で言葉足らずだから」
「先輩?」
「あいつ、牧野のこと気にしてた。普段俺と二人でしか行動しないから、わからないんだ。馬鹿だから」

 淡々と語る音は一定のリズムで、たぶん先輩にしたら饒舌に話している部分に入るのだろうけど、声音のせいか、リズムのせいか、流れるような音にしか思えなかった。
 和山先輩は空から視線を外しておれを見た。碧眼は見慣れない色で吸い込まれてしまうような魔力があるように思えた。淡々と滑る音、でも、目の奥にはそんな淡いものではなく、真直ぐ通った何かが見えた。

「俺が言ったんだ。その辺の奴脅して、あいつの標的にすれば楽なんじゃね、って。その間は志岐は楽だろって」

 じっと、見据えてくる。先輩は無表情のままおれを見ていた。どうしてそういう事を伝えてくるのだろうか。和山先輩はおれに何が言いたいのだろうか。先輩の言葉に内臓から冷えてくる感覚がした。
 おれ、絶対にこの人に怒ってもいい立場だ。明らかに先輩の発想は普通の人間からすれば最低で実行できるものじゃない。それを易々と言い放ち、実行した二人の先輩は最低だ。

「ごめんな。志岐、後悔してた。牧野が、」

 カラカラに渇いた喉から微かに音が漏れた。

「おれ、が?」
「気に入っちゃったから」

 馬鹿で、お人好しで、困ってる奴が見放せない。志岐と、牧野は俺から見たら似てるんだ。そう言い、先輩は飲んでいた飲むヨーグルトをぐっと掴んで背後に投げた。
 おれの視界に入ったのは、綺麗に弧を描き空を飛ぶ紙パックに、日光に反射しているキラキラと光る銀色だった。

 ガタン。

 背中から扉を開く音がする。現れた人を見て、おれは何と言えばいいか分からなかった。青空の清々しさにこれほどまでに似合わない黒髪があるのだろうか。そんな疑問を浮かべてしまうような色を風に遊ばせ、おれをここに呼んだ張本人が眠たげに欠伸をしていた。



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