人生は終わりに向かって走っていく。




鼻先に鋭い痛みが走って目が覚めた。視界いっぱいになまえのいたずらっぽい顔があって、ああまた噛まれたのか、なんて考える。「痛い」わざと機嫌悪そうに呟くと、なにが嬉しいのか彼女は更に笑みを深くする。


「そう?それはよかった」


間延びした話し方でそう返すボクより二つ年上の彼女は、彼女より一回り下の子でもしないような子供っぽいことをよくしでかした。例えばこうしていきなり鼻に噛みついてきたり、街を歩くときは常に手を繋ぎたがったり、キスの前に目が開いていたり。


「ボクの顔に歯を立てるなんて」


それでも、いや、そうだからこそ、ボクはなまえのそばから離れられないのだと思う。手を繋ぎたがるのは人の温もりが好きだから。キスの手順が分からないのは、ボクが初めての恋人だから。構われたいのに言い出せなくて、だから鼻なんて噛んだりする。


「おはよう、ルイ」
「はいはい、おはようなまえ」


そう、これだ。この困ったような、それでもどこか嬉しそうな笑顔が、ボクは好きだ。


「そんなに痛かった?」
「すごくね」
「うそ、ごめんねルイ」
「いいよ、許してあげる」
「ほんと?」
「うん、キスしてくれたらね」


視野が広いというのは日常生活においては良いことばかりでない。ビクリと震えた彼女の肩を、ボクは見逃せなかった。ほら、ボクは優しいからね。わざと茶化すような声で笑って見せながら、柄にもなく彼女の肩を掴む。

昨夜からボクが何かを強請るたび、なまえは瞳を揺るがせた。今までにそんなことは無かったし、そしてあくまでその動揺は、恒常では気づかないようなとても僅かなもので。


「……好きだよ、ルイ」
「……ボクも」


そして何よりボクはずるいから、そんな彼女の異変を知っていながら、気づかないフリをする。今だってほら、お互いの心の揺らぎを混ぜてぐちゃぐちゃにしたくて、だからこんなキスをするのだ。

いつものように彼女は、直前までボクを見ている。脳まで見透かされるようで、それが怖くて、ボクは目を瞑る。





「ルイはもてるから」
「え?何だい突然」


キスの後の気まずい沈黙を破ったのはなまえの方からだった。何もない方向をぼうっと見つめながら、彼女は無表情に言葉を選ぶ。胸の奥がざわざわと波立つのを抑えて、ボクはただ次の言葉を待った。


「妬いちゃうかもなあって」
「何に妬くの、ボクは名前だけを愛してるのに」
「……うん、そうだね」
「……なまえは違う?」
「そんなことない」


息を継いで、吐いた。なまえはボクの目をまっすぐ見つめる。さっきまで確かにあった動揺は、もうそこには無かった。


「私がこんなに愛したのは、ルイが初めて」


「引っかかる言い方をするね。愛した、なんて、まるで終わったみたいだ」
「……そうだね」
「それは?どんな意味?どっちを肯定してるんだい?」


語気が強まる。ボクは焦っているんだろうか。焦っても良くない結果しか得られないということは熟知しているのに。こんな時に嫌味でしか返せないなんて、これじゃ彼女のことを子供っぽいだなんて笑えない。


「別れたい、って言ったら?」
「……穏やかじゃないね」


聞きたくのない言葉が彼女の唇から溢れて、思わず顔を背ける。聞きたくない。覚悟を決めた女性の顔は美しい、なんて言葉の意味を、なぜ今知らなければならないんだろう。聞きたくない。知りたくない。


「ルイ」
「待って。いやだ。ボクはそんな話聞きたくない。だから、聞かない」



彼女はボクの手を取って、その小さな手のひらで包む。





「私、結婚するの」





ならば、ボクが向かう終わりとは何処なのだろう。





20101129

ちょっぴり続きます