「ねえ、なんで私はなまえなの」
「……シェイクスピアがやりたいとか?」
「バッキーだとかコッシーだとか、先輩後輩構わず変な名前で呼ぶくせに、私だけずっとなまえ」


突然の私の投げ掛けに、ジーノは目を丸くしてこちらを見た。お気に入りらしいところどころ端の折れたインテリア雑誌を閉じて、机に放る。「それはまた」


「突然だね」
「気になったから」


ふうん、とどこか面白そうに口を尖らせて、ジーノは少し考え始める。


「別に今はこういう関係だし、名前で呼ばれるのは当たり前だけど。初対面からジーノは私のことなまえって呼んでた」


こういう関係というのは、まあ、こんな風にオフの日に彼の部屋で彼のお気に入りの真っ赤なソファに一緒に座って、だらだらするようなそれだ。けれど、物事には始まりというものがある。始まりから、変化していく。

「そう言えばそうかもね」ジーノは笑って言った。かもじゃなくて、そうなんだってば。勝手に名前を付けて、誰彼構わず自分の決めた通りにジーノは人を呼ぶ。なのに私には、私だけは、彼から貰った名前が無かった。


「あだ名で呼ばれたいの?」
「いや、だから気になっただけ」
「まあいいや」


するりと腕が伸びて、私の肩に回る。女の扱いに慣れている彼は、よくこうして不自然なまでに自然な手段で私に触れた。肩の骨を大きな掌が包むような感触。どこか空を見ながら、ジーノは「ボクさあ、」と口を開く。


「他人の名前に興味が持てないんだよねえ。覚えるのめんどくさいし」


どこか論点のずれた答えが返ってきて、咄嗟に「ちょっと」と声が出る。まだ続きがあるから黙っていろとでも言うように、ジーノは私を一瞥する。


「でも同じコートに立つ以上は覚えなきゃやりづらいだろう?だからボクがセンスのいい呼び名を付けてあげてるんだよ。だってその方が分かりやすいし。ボクしか呼ばないんだから、呼ばれた相手も呼んだのがボクだってすぐ分かるしね。でも、なまえは呼び名を変えなくたって、ボクが呼んでることぐらい分かるだろう?」

「それに、例えばほら、ぼさっと突っ立って練習を……ああ違った、ボクを、まるで食い入るかのように、じっ、と見てる子がいたら、興味ぐらいは沸くよ。それだけ強烈な子なら、名前だって一回で覚えられる」



大いに身に覚えのある例え話をされて、眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。何を思い出したのか、フフ、と声を出して笑うジーノの無防備な脇腹を、私は思いきり肘で突いた。
壊れた空気を直すように、咳払いを一つ。



「ああ、話が逸れたかな。まあつまり、なまえはボクにとって特別だってことさ」



それとも、呼び方を変えないとボクだって分からない?なら考えないといけないなあ。顔を逸らし、嫌味な笑みを浮かべながら、ジーノは目だけで私をちらりと見やる。絶対に答えを分かってて聞いてる。この男は常に人より優位に立ちたがる。それが快感なんだ。底意地の悪い奴。答えるまで逃がす気ないよ、とでも言うように、肩を掴む手に力がこもった。「それで?どっちなの?」待ちきれないように奴は問う。



「……現状維持で」

「そう?なら良いんだけど」



満足げに口角を上げる彼のその表情は、人を貶めて楽しんでるなんて思えないぐらいに端正で、綺麗だと思った。


そう、まるで、人目を盗んでバルコニーの下へ逢い引きにやってくる、王子様のように。



If love be blind,it best agrees with night.



2010 1119