厳しい寒さは続くものの、学院の中では皆魔物のことなど忘れたように浮き足立ち、ふわりと春が芽吹く。その「春」とは四季の一員ではなく、味わいは甘くとも時に酸っぱい、そんな春のことである。 何を隠そう、刻一刻と、日本の女子には一大イベントであるバレンタインの日付が迫りつつあった。男が女に感謝の気持ち……というのは半ば建前で、心に抱く恋する気持ちを伝える日である。 「…………バレンタインかあ」 そしてここに、廊下にあちこち出来た乙女の輪を遠目から見つめる、迷える子羊が一匹。 「よ、しょんぼりさん」 「あ、セ、セシルさま!?」 帽子越しに触れた手の感触に、彼女は慌てて振り返る。湖面のような瞳がこちらを覗いていた。それに映るのは、子羊と言うよりはまるで怯える子兎。リリア・フローライトは、仕える主の神出鬼没っぷりに未だ慣れることがないのだ。 「……ふーん。バレンタインにあげる相手がいるんだ」 「へっ!?」 機械的な口調で呟かれた言葉は、リリアを焦りと混乱に陥れるのに十分過ぎる威力を持っていた。真っ白い頬が瞳と同じような赤色に染まるのを見て、セシルはダンディーな男性顔負けの、ニヒルな笑みを見せる。 「がんばってね。ボクは陰ながら応援するから」 「あ、あの、セシルさま、でもわたし、好みとか全然知らなくて……」 「なら、その辺の人におすすめでも聞いてみれば?ボクは今から昼寝だから」 「え、セシ……」 驚いた彼女が目を瞬かせた一瞬の隙に、欠伸をする主は影も形もなくなってしまった。青い紋章による、大気の水分を調節することにより光の屈折を変え、姿を消す技。害はないが、質が悪い。リリアは仕方なく、講義も受けず昼寝に向かった彼女を思い、そっと溜め息を吐いた。 バレンタインは間近だと言うのに、それから数時間経っても、リリアは誰にも話を聞けずにいた。日本の学院にぽつりと存在する外国人という肩書きに加え、いつもチームメンバーの後ろに隠れて行動している彼女は、友人と呼ぶような人間が少ない。小さな口から溜め息が零れると、リリアのウサギのような目は、その数少ない友人を捕らえた。 「あっ……クレイさん!」 「リリア?」 見知った顔に安堵して、リリアはローブを靡かせてぱたぱたと駆け寄る。緩く大きく結われたみつあみが重力に逆らう。長身のクレイを、リリアは首が痛くなるのも構わず見上げた。 「良かったあ、お訊きしたいことがあったんです」 「俺に……?どうした?」 「あの、」 言いかけて、リリアはクレイの背中に隠れていた人影を見付けた。透き通る紫色の瞳と視線がかち合い、その目がぐらりと揺らぐ。 「あ、ごめんなさい……お取り込み中でしたか?」 「い、いや、そんなことは、ない……」 消え入るような声で呟いて、彼女は俯いた。クレイはそんな彼女の頭にそっと手を乗せると、穏やかな眼差しで口を開く。 「リリア。彼女はフィオナ、友人だ」 「ゆ、友人だなんて、私はそんな大層な立場では……!」 フィオナは反論しようと必死に声を上げるが、クレイは何も言わず、黙って頭を撫でる。言葉もなければ更なる反論も出来ず、フィオナは再び俯いた。 「あの、リリア・フローライトです。よろしくお願いします」 「わ、私なんかが、よろしくして良いのか……」 「もちろんです!これでまたお一人、聖なる光のご加護を願う方が増えました。嬉しいです」 リリアは聖人のような、それでいて無邪気な微笑みを浮かべて、頭を下げる。その行為にまたフィオナは慌てたが、クレイが前に出ることにより停止された。 「それで、どうしたんだ?」 「あ!……えっと、その……バレンタインにチョコレートを作ろうと思ってるんですけど、どういうものが好きですか?」 「チョコ……あまり甘くない物が好きだな」 抑揚なく答えたクレイの視線とリリアのそれは、同じ方向へと向かう。 「フィオナさまはいかがでしょうか?」 「えっ」 まさか自分に来るとは思っていなかったフィオナは、大きく肩を震わせる。私の好みなど、と何度も謙遜したが、二人の視線に負けて、寝言でも言うように小さく口を開けた。 「わ、私は……大切な人から、もらった、物なら……何でもっ嬉し、い……」 「大切な人、ですか……そうですよね……」 答えたフィオナの顔が、ほんのりと赤い。リリアはそれを聞いて、僅かに高揚していた気持ちがすとんと落ちた。自分が思い人にとっての「大切な人」になれているか、自信が持てなかったのだ。それを察してか、フィオナが潤んだ瞳でリリアを見つめた。 「な、何も参考に、ならなくて……すまない」 「いえ!とんでもないです。とっても参考になりました、ありがとうございます!それでは、失礼しました」 「リリア、手伝いが必要ならいつでも呼べ」 「はいっ」 一礼して、リリアは二人の邪魔にならぬようにすぐその場を離れた。寮へ帰る前に、材料を買うために店へ寄る。帰宅する頃には、太陽は地平線に沈みつつあり、オレンジ色と紺色がくっきりと層を作り出していた。右手にウサギ印のエコバックを提げて、扉を開く。 「はあああああああ!?こんのノーなし女ふざけるな!!どういうつもりだ!!」 「それはこっちの台詞っス!!っていうか!なんでロレイムがバレンタインコーさんにあげるんスか!?女みたいな顔だからっておかしいっス!!」 「黙れこの【不適切な発言があったため削除しました】があああ!!!愛があれば365日プレゼントは可能なんだよ!!!!」 「?どうしたのかな……」 女性らしい高く、イナズマのような怒号が二つ。寮の共同スペースから聞こえてくるようで、リリアは物陰からそっと覗き――言葉を失った。 何故ならそこには、人の身の丈ほどあるチョコレートの塊が、どーんと二つ並んでいたのだから。そんなヘンテコな物の前で、見た目は女性……実際は男女の二人が言い争っている。両者カッカと顔を赤くして、凄まじい気迫が人を寄せ付けない。 「こんなにたくさんコーさんは食べれないっス!!ロレイムは辞退するっスよ!!」 「何を馬鹿な事を言うなこの【不適切な発言があったためry】!!!それならこうするんだ、どちらがより完成度の高いものを作れたかコーラルに決めてもらい、選ばれた方がプレゼント出来る権利を得る!!」 「よーしっ、望むところっス!彫刻は得意な方っスよ!!」 「はああああああああああ負けるかああああああああああああああああああ!!」 ガツンガツンと音を立てて、巨大なチョコの塊は二人の手で削られていく。可憐な容姿に似合わない光景に、リリアは少しの恐怖を抱きつつ目を白黒させた。 (すごい気迫……わたしも、がんばらなきゃ……) リリアは決意を改めると、二人の愛の作業場を離れ、早足で自分の部屋に向かった。想い人へのチョコレートを作るために。 (続くよ!) |