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「お、おい……誰か見てこいって……」
「あ、じゃ、じゃあ僕が……」

ライチは糸で操られているかのようなぎこちない動きで、額に冷えきった汗をかきながら、隣の部屋へと消えた。しかしその動きが逆再生されて、すぐに戻ってきた。……その瞳に絶望を映して。

「ち……」
「ち?」
「……遅刻、……です……」

くるりと振り向いたその顔も、震えた声も、今にも泣きそうなものだった。


「っ……走れええええええええええええ!!!!」

誠の軍師顔負けの大号令により、世界が動いた。――一斉に椅子は音を立ててしまわれ、一斉に踵を返し、一斉に地を蹴った。そう、彼らは、無我夢中だった。

「うわあああああああああああああああっ!!!」

三人は、目を血走らせてルームハリーヌを飛び出した。埃っぽい部屋に砂ぼこりを巻き上げ、床を突き抜けんばかりの足踏みで、電光石火の如く、駆け抜けて行った。

残響も消え失せて、ルカは眼鏡と棒を粒子に還すと、足取り軽くスキップしてリビングを訪れた。クレイは重苦しい雰囲気を纏いながら、その後を追う。

「……お前程根の悪い奴も、そういないな」
「それはどうもありがとうー」

地を這うような声に、ルカは陽気な声を返した。彼は窓を覗き、必死に走るルームメイトの姿を見てケラケラと笑っている。後ろに鷹の目よりも鋭い眼光を持つ大魔王が控えているのを、分かっていながら。

「……どういうつもりだ」
「何がー?」
「はぐらかすな。……あんな物を見せて、気を悪くさせていたらどうする!」

クレイは真摯に、目の前の相棒を鋭く睨み付ける。外を見ているルカは、細めていた目と歪めていた口を、全てリセットした。いつも笑みを張り付けている彼の無表情は、クレイの時とはまったく異なり、ひどく冷めていた。

「ああ……傷の事?いいじゃん別に……全部任務とかの傷でしょ?いじめられてた訳でもないし」
「それでも、見て喜ぶような物ではない。あいつらは普通の学生だ……見慣れない物を見て、恐怖を感じてしまったら」
「だからいいんじゃん。少なくとも、これでクレイは向こうとちょっと距離が出来たよね」
「なっ……」

クレイの赤い瞳が、動揺と困惑の色に染まる。ルカの青い瞳は、まるで海のように底が見えない。それでいて、そこに氷河がある。長い付き合いのクレイでも、彼の冷たい目はいつまで経っても慣れなかった。普段陽気に笑っている分だけ、特に。

「分かってる?クレイ。確かに任務はファイルを守ること……だけど、それが終わったら俺達ここを離れるんだよ?いつになるかは知らないけどさ。……どっちにしろ俺は、早くここを出たい。貴族とにこにこ共同生活なんて……考えるだけで、吐き気がする」

クレイの背筋が凍った。氷の刃が、首元にぴったりと当てられた気分だった。気を抜いたら、今にも動脈を切られそうだ。張りつめた空気。吐き捨てた言葉は、勢いよく床に叩き付けられた。

「見たところ、ルームメイトに貴族がいなさそうなだけ有り難いけど。……いい?クレイ。俺達はギルド『母の愛』のメンバーなんだよ。まさか仲良くしようと思ってないよね?」

ぎくりと肩が強張った。長年培われてきた相棒の目は、どう頑張っても誤魔化せない。クレイは脳の奥で頭痛が起こり始めたのを感じながら、何とか頭を頷かせた。背中から汗が吹き出るのが分かる。

ズシリと鉛のように重い空気を裂くように、ルカは大きな溜め息を吐いた。その息が冷気を暖めて、氷の刃がみるみる溶けていく。

「やっぱりね。……まあ、むしろ仲良くしないーなんて言い出したら俺、病気じゃないかって疑うよ。……はーあ、クレイはさ、どうなの?あの時の事、今は何にも思ってない訳?」

嘆息と共に吐き出された言葉は、クレイの胸を締め付けた。あの時。頭に擦り付けられた、忘れられない記憶……思い出すだけで、ガンガンと頭の中で警鐘が打ち鳴らされる。乱れそうになる息を整えながら、クレイは必死に平静を保った。瞳の中の炎が、ゆらゆらと揺らめく。

「そんな訳がないだろう。……俺はただ……強くなりたいんだ」
「やれやれ、ギルドランクSSの【真紅の皇帝】さんが何を」
「違う!!」

ルカの鼓膜が、痛い程震えた。その正体がクレイの悲痛な叫びだと気付くまで、しばらく時間がかかった。きつい視線をよこすクレイの姿が、とても幼く見える。
ルカは内心、頭を抱えた。墓穴を掘ってしまったと。

「俺は皇帝なんかじゃない……!」
「うん。知ってるよ。……ついでに言うと、俺も守護なんか欠片もない」
「このままだと駄目なんだ……。俺が……俺が強くならないと……」

クレイの様子は、呪いを唱える時と似ていた。何かに憑かれているようにも見えて、ルカはまた溜め息を吐いた。クレイには分からないように、そっと。

「クレイさ。強くなるのは良いけど、まずはここを強くした方が良いよ」

ルカの声色に、明るさが戻った。呆れたように瞼を下げて、指先で頭をトントンとノックする。もう片方の手は、ローブのポケットをまさぐっていた。
クレイは肩を揺らして我に返ると、不機嫌そうに眉根を寄せる。

「どういう事だ」
「そのまんま。クレイは良くも悪くも純粋過ぎなんだよ。本当に強くなりたいなら、まずは騙しと嘘に慣れないと」

ルカは桃色の記憶石を顔の横に持っていくと、俺みたいにね?とおちゃらけてウインクをした。その態度が勘に触ったのか、クレイはぶっきらぼうに言葉を発する。

「そんな事……俺には」
「出来ない、でしょ?分かってるよ。俺が見たくないもん、嘘つきクレイ君。正直俺はさーあんまり変わって欲しくないよ、クレイには」
「……そうなのか?」

さらりと発した相棒の言動が意外だったらしく、クレイは目を丸くする。そんな彼の横を通り、ルカは机の前に悠々と立つと、記憶石を握り込んだ。その隙間から、淡い光がこぼれる。

「馬鹿みたいに真面目で、任務バカで、ポカポカお人好しで、嘘へったくそで、ちょっと人を騙しただけで傷付いて、小さい頃から俺の後ろついてきて……そんなクレイだからついてくる人もいるんじゃないの?あんまり強くなると、逆に損するよ。……改造は改善ばっかじゃなくて、改悪だってあるんだから」

クレイはふと、学園長の言葉を思い出していた。
変化を恐れてはいけない。そして、誰よりも強くなりたいという思い。
しかし、変化したら自分が変わって、相棒から見放されるかもしれない。

彼は、ふたつの大きなものを天秤にかけた。

ぐらぐらと大きくぶれながら揺れ動き、それが平行になることも、どちらかに傾いて止まる事もなかった。

「んじゃ、始めますか!」

パンッとルカが手を合わせる音で、クレイの中で展開される思考の迷路が閉まってしまったからだった。
机には、学園長からもらったファイルと、四つ折りに畳まれた紙切れがあった。



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