3


 橙色の灯は、穏やかに小さな肩を照らしている。
 荒立てて騒いでいるのは人間と楽器だけだ。異空間を演出しているのは間違いなく提灯に灯された光だが、その下にいる賑わいは紛れもなく、餌に集る動物の群れそのものだった。

「おじさんっ!」

 絹のような金髪が、ふわりと上品に揺れながら、淡いオレンジを帯びている。召使お手製の甚平は、少し袖が余るものの、濃緑色の滑らかな布が使われていた。初めての祭りに赴く贈り物として力が入っているのはよく分かるが、彼の日本人らしくない顔立ちとは、あまり合っていない。
 その横を歩く、七分丈の黒いラフなシャツをまとった男は、褐色の腕を灯りの下に晒していた。スーツを纏わずに外に出るなど、随分と久しぶりだった。屋台の煙と熱気と笑い声が、夏用の薄い布地に吸収される。

「あれ!あれ何?」
「綿飴だ」
「わたーめ??ふーん……つぎ、こっち」

 彼の無骨な手を、シルクのように高貴で柔らかい、小さな手のひらが握っている。目鼻立ちも少しずつはっきりしてきて、自分の足で歩いていた。
 祭囃子は絶え間なく二人の耳に届いている。しかし、先導切って歩く彼は、音よりも目の前の物の方が興味深いようだ。
欲しいと言えば与えてやるつもりだった。しかし、あれは何これは何と訊くだけで、「欲しい」という一言は口から出てこない。持ち合わせはいくらでもあると言うのに。こっち、こっち、と、人混みに物怖じせず手を引く。

「おじさん、こっちっ」
「……ああ」

 嗚呼、今も昔も――手を引かれてばかりだ。
 紫魔は静かに目を細めた。微笑みではない、わずかな苦痛に。胸を刺す、むしろえぐり取るような、この×××に。この身すべてをどこかへ生贄として捧げ、この場に置き去りにしていくような感覚。
 数ヶ月仕事から姿をくらまして、その間考えたのは、浮かんではすぐさま消える幻想ばかりだった。今目の前にある、この祭りのような。
 増えそうになった独り言にすべて蓋をした。耽りそうになった物思いは振り払った。そうして今日、紫魔はここに居る。

「おじさん!おじさん、わたあめ、ほしい?」
「ん?……欲しくない」
「からあげ?」
「……からあげも欲しくない」

 こちらを振り返りながら、こてこてと首を傾げている。紫魔は目を丸くした。ねだってくるのかと思いきや、紫魔の欲しい物を伺ってきている。
 まさか、と肩を竦めた。いくら彼の息子だとは言え、他人を察して心配をするには、まだ早すぎる。
 しかし、このまま見て回るだけになってしまうのも忍びない。紫魔が欲しいと言わない限り、彼はきっとあれは何と尋ねてくるだけのロボットになってしまう。

「お前は、欲しい物はないのか?」
「んー、んー」

 興味深い物は星の数ほどあるというのに、彼の反応はあまり思わしくなかった。口をすぼめながら、幼い顔をしかめている。焼きとうもろこしの香り、チョコバナナの彩り、唐揚げが揚がる音、祭りはありとあらゆる方法で欲を刺激しているはずなのだが、それが、ただの散歩になってしまっている。最早呆れ返って肩を竦めた。

(欲のなさまで、父親譲りか)

 思えば、彼も紫魔に与えてばかりだった。好奇心が旺盛な割りには、あれこれと全部紫魔を気にしながら譲り、笑っていたものだ。特に幼い頃は。
 だが、彼は聖璃ではない。紫魔は握る手の力を、少しだけ強めた。

「良いから言ってみろ。一つは何か買って帰るぜ」
「うん」

 頷きはするが、やはり思わしくない。喧騒に紛れて溜息をついた。
 すると、ぬるい風に乗り、興奮した子どもの声が紫魔の耳に入った。

「パパ、あれ、あれ取って!」
「いやあ……難しいなぁ」
「えー!」

 小学生程の少年が、父親らしき男に何かをねだっている。作り物の銃、並べられた景品、打ち出されるプラスチックの球。祭りの華とも言える射的の出店だった。
 父親から放たれる球は、大きなラジコンの箱に当たりはすれど、倒れる兆しも見せない。
紫魔にも、紫魔の横にいる彼にも、決して経験出来ない光景だった。

「おじさん、あれ」
「ああ……射的だ」
「しゃてき?」
「あそこに並んでる物を打って落とせば貰える。そういうルールだ」

 じい、と、澄んだ翡翠色の瞳が、食い入るように見つめていた。それは景品だったのか、親子だったのか、遠目に見ていたので分からない。しかし、彼は確かに、その景品を指さしていた。
 少年とその父が諦めようとしている、全景品の中でも大きな壁とも言える、ラジコンの箱。

「おじさん、おじさんっ、あれ」
「あ?……欲しいのか」
「うん」

 彼は確かに頷いた。紫魔の答えは決まっていた。

「待ってろ」

紫魔は出店の前に立ち、財布を出す。真夏の汗を吸い取るバンダナを巻いた店の男は、紫魔の顔を見るやいなや、ぎょっとして目を見開いた。

「あ!!あんたもしかして天道――」
「一回で何発打てる」
「は、あ、三発です!ひえー、まさかまさかの……お目当てはなんですか?」
「そこの箱を貰う」

 紫魔は顎でラジコンの箱をしゃくった。おお、と男から弾んだ声が上がる。

「ありゃ難しいですよ!いや、いくら貴族様でも三回分は必要だと思いますね」
「一回で良い。あと、今の俺はただの客だ」
「は、そうですねぇ……んじゃ頑張ってください」

 紫魔は適当な銃を手に取る。横の親子は最後の球を放ち、全て使い切ってしまったようだった。

「おじさん、だいじょぶ?」
「ああ」

 控えめに紫魔の横に並んでいる彼の頭に手を置き、紫魔は腕を伸ばした。片手で銃を構え、漆黒の目を光らせる。
 球の強さと軌道は、先程の父親の打ち加減を見て記憶している。当たった箱の揺れ具合で質量のバランスも見ている。必要なデータが揃ってしまえば、あとは計算して出力するのみだ。
 一発目。箱の角を打ち、後ろへとズラす。あー、と店主から落ち込んだ声が漏れた。

「ズレただけですね」
「計算通りだ」

 さらりと返す紫魔に、店主は二度見ならぬ二度聞きをしそうになった。
 二発目。同じ場所を打ち、更に後ろへとズラす。
 間髪入れずに三発目。――箱の足下を打ち、バランスを崩す。ぐらりと揺れた箱は、立つ力を失くして後ろへと倒れ、棚から落ちる。
 店主の口がぽかんと間抜けに開かれている。あまりにも綺麗な流れに、言葉も出なかったらしい。

「おい。貰うぜ」
「えっ、は、はい!どうぞどうぞ、いやはやすげーもん見た……」
「要は倒せば良い。一発で落とす方法より、最短手順を出して崩す方法を考える方が早い時もある」
「これはもうお客さんはやっちゃダメだな、景品が空っぽになっちまうわ」

 店主は乾いた笑いを返すものの、紫魔は他に取るつもりもなかった。箱を受け取ると、目をきらきらさせて見ていた彼へとそれを手渡す。

「おじさん、すごい!」
「すごいか?普通だ」
「ふつー、すごい」
「……まあ喜んだなら良い」

 キラキラとした憧れの眼差しは、なかなか慣れない。むず痒いものを感じながら、紫魔は首を掻いた。
 彼は――その箱を、隣で肩を落としていた少年へと、いつの間にか差し出していた。

「はいっ」
「え?…………お、俺にくれるの?」

 金髪がゆるく揺れる。首が縦に頷かれ、少年の目は輝いた。

「良いの!?」
「え、いやいやそんな、えっ、良いんですか!?」

 父親は紫魔の方を気にしているようだった。あまりにもうまい話に乗り切れないのだろう。紫魔はにこにこと笑う彼を横目で見守り、小さく頷いた。

「俺はコイツが欲しいと言ったから取ったまでです。それをどうするかは任せるので、問題はありません」
「は、はあ……ありがとうございます、本当に」

 父親もぽかんとしながら、そして店主も有り得ないものを見るような顔で、紫魔と彼を見ていた。
 無理もない。三歳の子どもが、見ず知らずの少年にプレゼントをするために射的で景品をねだるなど、早々聞く話ではないだろう。むしろ不自然だ。
 少年と別れるその時まで、彼は笑っていた。きっと、与えることに喜びを感じていたのだと、紫魔は思っていた。


「ねえ、おじさん」
「なんだ」

 祭りもそろそろ終盤に差し掛かっていた。もうすぐ終わりの花火が始まろうとしているが、まだ二人は屋台を練り歩いていた。結局飲まず食わずなので、何かを買わなくてはならない。

「たける、きぞくっぽかった?」
「……は?」
「きぞく、みたい?」

 紫魔は耳を疑った。
 背筋が凍る思いだった。――おそらくは、先程の事を言っているのだろう。貴族らしく振る舞えていたのだろうかと、彼は訊いてきた。
 それ自体は悪い事ではない。しかし、紫魔の胸には、刺さる棘があった。

(言われてんのか、これは。周りから――聖璃のように在れと、父のように在れ、と、お前は、言われてんのか)

 花火のアナウンスが流れる。それを聞き流し、紫魔は拳を握った。今隣にいる彼は、天道聖璃ではないことを、誰よりも紫魔は知っている。
 いくら人のために動いても、いくら自身を犠牲にしても、いくら欲がなくても、彼は聖璃には成れない。その上で、欲を出さずに箱をプレゼントするのは、彼なりの貴族としての在り方だったに違いない。
 ――それでも。

(…………俺は……)

 花火が始まる。大きな音に驚きながらも、おじさん、と彼は声をかけてきた。すごい、すごい、綺麗、と喜んでいる。
 弾けんばかりの笑顔は、聖璃と似て非なるものだ。

(来てからずっと俺に欲しい物を訊いてきたのも、貴族で在るためだとしたら――…………)
『僕はお前には、正しいと思った道を生きていって欲しい』

 ふと、何度も言われてきた言葉が胸に過ぎる。
 ――聖璃は、自分の子に、どのように生きて貰いたかったのだろう。自分と同じように生きてほしいと、彼は願うだろうか。天道聖璃のように在れと。
 問うても聖璃は答えない。その答えは永遠に返ってこない。だが、天道を誇りに思う背中を、紫魔は長い間見つめていた。

(お前が伝えたい誇りは、違うだろう。聖璃。そんな薄い物じゃねえだろ)

 紫魔の胸に小さな灯がともる。紫魔はそれを、使命と呼んだ。生きる意味と呼んだ。
 がむしゃらに走り過ぎていて忘れていた。彼を「天道健」という名の王にする事が、紫魔の使命だった。決して、「天道聖璃の代わり」を育てるのではない。
 彼には、ただひとりの天道健として、生きて欲しい。祖父の傀儡だった本郷猛が、ただひとりの天道紫魔として今を生きているように。

「――タケル」

 呼び掛けると、健は紫魔を驚いた顔で振り向いた。無理もない。物心ついてから彼の名を呼んだのは、これが初めてだった。
 天道健。おそらくこれからも聖璃の名を背負うことになる子。紫魔は、健の頭に触れた。

「花火が終わったら食い物買いに行くぞ。何を買うかはお前が決めろ」
「え?……たける?」
「ああ、お前が決めろ。俺もお前が食いたい物を食う。さっきのが立派な貴族だったから、もうそれで良い」

 少しだけ間があって、健は小さく頷いた。紫魔はそのまま、置いてある手を動かした。

「よくやった」
「!……うんっ、おじさん」

 普段褒めることなどめったにない紫魔が、頭を撫でて褒めてくれた。健にとって、花火よりも嬉しいことだった。無骨な手に触れられる方が、健は喜んだ。
 空を散っていく花火は命のようだと、紫魔は思った。一瞬の美しい瞬間を切り取るように咲かせ、後には何も残らない。
 ただ、言えることがあるならば。

(お前が答えないのなら、俺の好きなように健を育ててやるよ、聖璃。……忘れてた。それがお前の望みだ。俺はまだ――好きなように生きるぜ)

 何も残らない事は無い。記憶と、傷と、希望を残している。
 明日を生きる意味はすべて彼から与えられた物だが、紫魔自身がそれを選択している。
 そのように生きて欲しい。そのような人間に成って欲しい。言われるがまま生きるより、辛い事になったとしても。不利益はすべて己が被る覚悟もある。
 紫魔は静かに決意を抱いた。討伐団を辞める時とは異なる想いだった。



 翌日、アルバムには四枚目の写真が貼り付けられた。
 わたあめとからあげを両手に持って無邪気に笑う、三歳の子どもらしい健の自然体だった。

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