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天道家が収める地域は、魔物さえ居なければ、至って平和に満たされている。
当主の死は街の動揺と不審を呼び込んだものの、二年も経てば、「そんなこともあった」と語り継がれるものになる。
紫魔に対しての評価も同様だった。人の噂も七十五日。当主の座を狙っているという話は、約千日、紫魔が天道に捧げた時間によって解決しつつあった。
睡眠時間は前の半分程になった。天賦の才と呼ばれた記憶力と機動力を駆使し、マルチタスクをこなす紫魔は、最早頼りにならない状況がなかった。

「紫魔。今日は休日にしよう。聖璃の墓参りにでも行くと良い」

そんなある日。
突如正司から告げられた休日。紫魔は言われた通り、聖璃の墓へ行くことにした。健の面倒を見ることも考えたが、今日は、ひとりになりたい気分だった。正司はそれを見抜いていたのだろうか。

花屋に適当に見繕ってもらった花束を持ち、街を歩く。ランドセルを背負った子どもから、杖をついて歩く老人まで、様々な人間とすれ違う。平和の香りがする。
時折新しい道路の整備がされている。駄菓子屋のシャッターが閉まり、張り紙が貼られている。ごみで溢れていた路地裏は、最近整備が入ったのか、綺麗になっていた。街の治安を正司が気にかけていただけある。
劇的な変化ではない。しかし、街は少しずつ、青春時代の景色とは変わりつつあった。ボロボロの木の家が、いつの間にか白いコンクリートの家に変わっていた。学校の近くにあった店が潰れ、駐車場になっていた。

墓は高い丘にある。緑が溢れた地で、関係者以外は立ち入らないように、石の壁に囲まれて神聖に立っている。歴代の貴族が眠る墓。少しだけ寂れ始めた聖地。
自分より先に息子が入ることになった時――正司の思いは、決して軽くなかったに違いない。チリチリと胃の底が熱される。

そこに立った時、紫魔の肩を風が押した。

「……よう」

ただ、そこに眠ると書かれただけの石の板に、紫魔は声を掛けた。
周りに人はいない。挨拶は、彼に向けられたものだ。

「お前はそこに居ねえ。……分かっている」

紫魔は紙にくるまった花束を抜き、近くのカラになっていた花瓶へ挿した。枯れたのか、誰かが抜いたのか、そこに捧げられているものはそれ以外になかった。ある意味では、とても彼らしいではないか。見返りを求めなかった、彼に。

「分かっていても、お前が居ると思わせる。墓っつうのは、面倒なモンだな。……なあ、聖璃」

紫魔はふいに、天を仰いだ。宇宙へ繋がっている青空。薄く雲が広がり、太陽を覆い隠している。

「お前の息子はもう、言葉を話し始めた。自分の年齢も言える。顔は……生まれ変わりのように、お前によく似てる。お前の面影が日に日に、増している……」

――炎に包まれた裏道が、脳裏に過ぎった。
八歳だった。八歳で、本郷猛は父を殺した。
まだもみじのように小さかった己の手で、覚えたての能力を使って。
何も知らなかった。何も得ていなかった。何一つ知ってなどいなかったのだ。
感触は今でも思い出せる。乾いた皮膚を掴んだざらついたそれ。首元から吸い取った水分は、吐き出すことは出来ない。今でも身体に吸収されたまま。母を殺した父の血も、この身体に巡っている。家族を壊した祖父の血も、この身体に息づいている。
まだ幼い彼は、背負いきれなかった。ありとあらゆる、大きすぎる罪を。すべてを壊すしかなかった。本郷猛としてのすべてを。払い切れない代償を。
そこに引き寄せられた運命が、すべてを変えるまでは。
一筋の光と、赤く染まった森の中で出会うまでは。

「運命の中で……奇跡を選ぶ……か。……俺がこうなるのも、運命だったのかもな」

紫魔の胸の内は、風が通り抜けていた。清々しいようで、空洞になったようで、満たされたようで――
光を失いそうだった日。光を失ったと同時に、新たな光が生まれた日。
毎日を思い出すことが出来る。ただ手を引かれていた日々も、木の上に居始めた頃も、養成学院に通っていた頃も、唯一顔に傷を付けられた時も。それぞれが浮かび上がるたびに、交わしていた言葉も、紫魔の胸に語りかけられている。
いつからだったか。彼が、「ただそこにいるだけの人」から、「ただそばにいるだけの人」になったのは。
紫魔は墓石に手を伸ばしかけて、ゆっくりと引っ込めた。
自分の指先が触れてはならないと、己の何かが囁いていた。

「…………お前の息子は俺が預かる。預かるだけだ。いつかきっと、お前に返すぜ。――奇跡を選ぶ王として」

墓石に触れるのは、己ではない。彼ととてもよく似た色をした、絹のように白い手のひらだけが、それを許される。
白い絵の具の中に黒を混ぜることは許されない。澄み渡った泉に泥を投げ入れることは、許されないのだ。
紫魔は早々に背を向けた。自分にしては、長居しすぎた。

「その時まで……せいぜい、俺の中にいるんだな……」

紫魔は己の胸に手を当てた。
心臓が呼吸を繰り返している。己はまだ、生きている。
狂おしい程汚れた泥が身体を巡る中、心臓だけが、色鮮やかな花を抱いていた。

   悲しみはない。
   恐れはない。
   決意を胸に己の手で切り開く運命の道を、彼が教えてくれたから。

「……ああ、俺は……変わらねえぜ。聖璃」

ぽつりと落とされた言葉は、熱も冷気もなく、ついでと言わんばかりの軽さだった。


―――――


二枚目の写真は、立って歩いている姿。三枚目の写真は、絵を描き殴っている様子だ。
最近の健は、クレヨンに興味を示し始め、毎日のように紙と向かい合っているらしい。ひとり遊びが好きなのは、やはり血筋だろうか。
紫魔は例年の通りアルバムに写真を挟むと、奥にしまおうとした。……ふと。アルバムを抜いた棚の隙間、その奥底に、白い何かが見えた。しわくちゃになった紙の端のように見える。

「……なんだ?」

遺品は大方整理したつもりだったが、遺書なる物は今まで出てきていなかった。ゴミだったら、それはそれで処理しなければならない。紫魔は手を奥へと差し入れ、それを引っ張り出した。奥に突っかかっていたので、隣の本も引き出すはめになってしまった。
紙は2つ折りにされた状態で、更にぐしゃぐしゃに丸まり、更に押し潰されていた。強引に奥へと押しやられたらしく、聖璃の部屋にあった物とは思えぬほど、悲惨な有様だ。
紫魔は紙を開いた。そして、目に入ったのは――文字と、クリップで留められていた一枚の写真だった。

震えている暇もなかった。呼吸をしている余裕もなかった。

「紫魔」
「――!!」
「知ってしまったのか……」

『……知ってしまったのか、タケル』

ひらり、と、紫魔の足元に紙が落ちた。部屋の入口に気配を感じる。後ろから聞こえる声は、低く、冷静沈着そのものだった。
紫魔はまず咄嗟に、腹の底から煮えくり湧き上がる殺意を抑えた。頭の先まで満たされそうな衝撃を堪える。振り向いた先に刃物はない。しかし、あまりにもおぞましい記憶と重なる光景で、震える拳は、いつでも脳天を打ち抜ける状態になっていた。
紫魔は振り向かず、俯いた状態で、声を喉から絞り出す。

「……お父、さま」
「…………」
「教えてください。……いつから、知っていたのですか。…………いつから……これを……」
「私は、君を学院に入学させた時だ。あの時と君が家に来た日、裏道に魔物が集まる現象を突き詰めていった結果、辿り着いたのは――本郷智昭。巧みな話術で犯罪を起こす、有名な知能犯だ」

正司は仕事の時よりも真摯な声色で、事実を語った。そして、紫魔の足元に落ちる紙を一瞥する。紙に書かれていたのは、彼と祖父の素性だった。留められていた写真にいたのは、暗い路地裏に佇む、ひとりの老人とひとりの子どもだった。

「本郷猛。それが君の、本当の名前だった……」

身体が地に伏していても、泣き崩れていても決しておかしくはなかった。紫魔は、固まったように立ち尽くしていた。
今まで仕えていたのも、すべて――本名を知っていての行動だったことに、頭が追い付かない。
正司は小さく息を吐いて、紫魔へと一歩を踏み出した。

「初めはもちろん迷った。犯罪者の息子を貴族の家に住まわせるなんて……と。しかし君は、聖璃の双子として、聖璃を見違えるように成長させてくれた。この家に尽くしてくれた。天道紫魔として生きる君の邪魔をしたくなかったんだ。ただ……」

説明だけで色がなかった正司の声色が、落ち込むようなそれに変わり始めた。空に、今にも雨が降りそうな曇天が漂いそうな。

「本当のことは、聖璃に話しておきたかった。聖璃が当主になってしばらくして……私はその紙を持ってここに訪れた」
「……それで、聖璃、は……」

乾ききった喉で、紫魔は一声を絞り出す。
ふ、と、正司は、あざけるように微笑んだ。

「私と聖璃は――あの日、人生で初めて親子喧嘩をしたんだよ」



…………



『やめてくださいッ!!』

乾いた音と共に腕を叩かれたのは初めてだった。手に持っていた紙ごと払われ、床に落ちる。一瞬目に触れただけの紙に、親の仇でも見るような形相を浮かべている。こんな聖璃は初めてだった。

『なっ――!聖璃!何を』
『いくら、お父様でも……っ、勝手に紫魔の本当のことを言うのなら僕は許さない!!』
『待て!お前はもう大人だ……!ここの主になったんだ!紫魔の素性は知っておく義務がある!』
『紫魔はっ……紫魔はそれを許したのですか!?』
『……いや。彼にこれを知られたら、また修復が難しくなる』

歯ぎしりの音が聞こえた。食いしばりすぎて、そう聞こえたのかもしれない。聖璃は懸命に睨み付けていた。今までの人生、親に反抗したことなどなかったというのに。

『大切なことは、紫魔本人から聞きます……!僕は紫魔の口から聞きたいんです。このような紙、いりません!』
『それだといつになるか分からない!お前は紫魔のことを知りたいとは思わないのか!?』
『いつまでも待ちます!!紫魔のことは、学院にいた時から謎が多かったです。あの時からずっと、ずっと……知りたかった。力になりたかった……!でも、僕は……』

一呼吸を置いた。睨むのは、怒りからではなく、確固とした聖璃自身の意志からだった。強い決意の眼差しだった。

『僕は、誰よりも紫魔を信じています』
『……信じている?』
『いつか腹を割って話せる日が来ることを、僕は信じています。その時まで、僕は、真実を知りたくなんか』
『聖璃。もう、それだと駄目かもしれないんだ』

紙を拾い上げて、伏せた状態で聖璃の机上へと滑らせた。聖璃が、諭すような口調に面食らっている隙に、追い打ちをかける。

『分かってくれ。……これは誰よりも紫魔のためなんだ。彼のことを知るのは、彼のためになる』
『…………。しかし、僕は』
『今回の件は、知っておかないと、街を無駄な危険に晒す事もある』
『!』

聖璃の表情が明らかに変わった。
アリア譲りの柔らかな瞳が、迷いに揺れている。白い喉が詰まっている。きっと、その事実に込められた言葉を、ただ、聞くことしか出来なかった。首を縦に動かすしかなかった。

『貴族として生きるというのは、そういう事なんだよ……聖璃。ここに紙は置いておくから、その気になったらめくってくれ』
『…………はい。わかり、ました』



…………


「この紙の様子だと、結局めくらなかったんだろうな。……ここを見てくれ」

正司は紫魔のそばへと近付くと、押し込められてシワだらけになっている紙を拾い上げた。正司が撫でるように指をさした先には、幾つもの丸いシミがある。

「涙の跡だろう。……優しい子だ。見ても見なくても誰かを裏切ってしまう事に、苦しまずにはいられなかったんだ」
「――……」

ひとつふたつのシミではない。紙の上半分が一度全面に濡れたくらい、跡は広がって残っていた。
林の血溜まりと同じだ。どれほど彼が苦しみ、どれほど涙をこぼしたのか、物言わぬ物が語っている。誰よりも、彼の葛藤を知っている。
正司が部屋を出てから、どれほど嗚咽を漏らしていたのだろう。見るか、見ないか、その選択を前に、家を守らないといけない使命と、紫魔と結ばれた見えない糸を思い出していたのだろう。
どんなに苦しくても、前を向いて諦めなかった、真っ直ぐな目をしていた彼が。

(苦しめて、いたのか)

何も知らなかった。

(俺が……。誰より、お前を――苦しませたのか)

露になった名前よりも、その事実が、紫魔の胸に深く突き刺さった。
己の手足にのみ打ち付けられた楔だと思っていた。聖璃に言わぬことで生まれる苦しみは、天道紫魔への罰だと思い込んでいた。本郷猛の罪は、己のみが負うべきだと――

それが――嗚呼、それが――


「……聖璃……」

何かをしたくても、その彼は何処にも居ない。たとえ億千回名を呼ぼうと、応える人間はこの世から既に去っている。
「お前は背負わなくても良い」と、ただ一言、その一声は、決して届きはしない。

『心苦しいところもあるけど……』
(そういう、事だったのか)
『それでも、未来の天道家を守るために、少しずつ良くしていきたいと思っている』

別人を見ていたような錯覚も、あの言葉も。すべての原因はここにあった。
己のような思いを、子どもには味あわせまいと。天道家を守るだけではない。少しでも、己の思いが貫けるように。

「……それでも前を、見ていたのですか」
「ああ。今の体制で何か直せるところはないかと洗い出していた。結局……見い出せずに、逝ってしまったのだが……」

……沈黙。
重苦しい沈黙が、部屋中を満たした。紫魔の胸中は、今にも割れそうなヒビすら入っている。
彼の願いを汲み取っていたはずだった。彼の望み通り生きようとしていたはずだった。それが――かえって首を締めていた。

「…………。俺は……分かっていなかった……」
「いいや、信頼を結んでいるからこそ、絆が深いからこそ……分かられたくないこともある。大きな傷を付けてしまうこともある。信頼の前では、とても小さいはずの傷を……。ただ、それだけの話だよ」
「…………」

痛いほど強く、強く握りしめられる褐色の拳を、正司は見つめた。
自分に出来ることは、もうないだろう。小さく息を吸う。

「これからしばらく休みなさい、紫魔。もう前のように、がむしゃらに働く必要もない。少し……落ち着く時間を過ごそう」

コツコツと、革靴の足音が遠ざかっていく。
紫魔は拳を解いた。机の上に引っ張り出してあった本とアルバムを、棚へと戻していく。
――あの時、押し潰すほど、聖璃は奥へと押し込んだ。見たくなくても捨てられない。彼の優しさがそうさせた。それを思いながら。それを感じながら。
そうして、机へと振り返った。そこに座っていた主は居ない。しかし綺麗に掃除されており、いつでも使うことが出来る。居なくなったことなど、感じさせないように。

「お前は……居ない。この世界の何処にも、もう居ない。……分かっている。何処にも……」

机を緩く撫でながら、紫魔はひとり、言い聞かせるように呟いていた。……けれど。

「もう……背負わなくても良い。……。背負うんじゃねえ、この、バカ野郎ッ……!」

――何を言おうと、彼と腹を割って話す日は、二度と来ない。
分かっている。分かっている。分かっていながらも……
分かっていながらも、ただ、拳を打ち付けることしか出来なかった。彼が貴族を変えようと決意した、この場所で……。

嗚呼、涙が出るならば、いっそ思い切りこぼしたかった。

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