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 ――頂点(天国)を目指していた天道紫魔が誰かの下にいる事を、聖璃は笑うだろうか。驚くだろうか。悲しむだろうか。
 おそらくは、そのどれでもない。考えてもいなかった言葉が返ってくるに違いない。彼はそういう男だということを、紫魔は誰よりも知っていた。



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 始めの一年は目まぐるしく去っていった。
 天道聖璃が当主の座からこつぜんと消えてから、天道家の様子はもちろん、彼らを見る貴族の目が変わっていった。正当なる後継者が子どもを庇って死ぬ事態など、聞いたことがない。信じられない事実は噂を呼び、噂は噂を呼ぶ。話に尾びれが付き、背びれが付き、何ならひれに身体が覆われてしまう程に。
 人間が人間である限り決して変わらないであろう、そのような事実無根の幻想が、紫魔は嫌いだった。家の事をやる時ならいくらでもどうにでもなるが、父と食事会や親睦会に出る時は、本当にどうしようもない。

 人工的な眩さに、四方八方から囲まれている。優美の膜をまとった黒黒とした声が、右から左に通り抜けてゆく。昔だったら、パーティから抜け出して、ひとりで無害な窓の外を眺めていた。何も考えずに、静まる世界を、見つめる――とも、また言い難い。夕日色の濁った眼を向けるだけだった。
 だが、今はそれは許されない。自由へと続く運命を、紫魔は己の手で曲げてしまったのだから。
 立食パーティという名の親睦会に、紫魔は付き添っていた。机の上に並ぶ食事と酒に、紫魔は手を付けようとはしない。横にいた正司が見かねて、真っ白い皿と空のグラスと紫魔を交互に見つめた。

「紫魔、食べないのかい?ここに来てから飲まず食わずじゃないか。帰りの車は別の者に運転させるから、飲んでも構わないんだよ」
「いえ。今日の俺はお父様の護衛も兼ねていますので、控えさせて頂きます」

 紫魔は無表情で軽く頭を下げる。正司は子どもっぽい笑みを浮かべて、自分の皿を取った。会場に来てから話詰めで、正司も今の今まで料理は食べられていなかった。サラダとローストビーフを数枚取る。

「……そうか。それなら、私が食べる料理の毒見をしてもらおう。それなら食べない理由はないだろう?」
「……口がお達者で……」
「君が私の仕事を手伝い始めてからそろそろ一年だ。流石に付き合い方を学んできたさ」

 ほら、と白い皿に盛られた料理を渡される。明らかに味見用の量ではないそれに、紫魔は小さく息を吐いた。押し退けるばかりでもいけない。素直に受け取った。
 討伐団にいた頃では考えられないような、自分の力ではどうにもならない物というのを、紫魔は知りつつあった。建前。面子。顔。そういう、眩い光を放っているようで、蓋を開けてみれぱそこらに転がる石ころのような物。聖璃の気高い貴族の魂は、貴族の世界に安安と落ちてはいないのだ。何とも、矛盾している。

「あ、あのお方よね?天道家のもう一人のご子息……」

 ぴく、と紫魔の耳が動いた。二つほどテーブルを挟んだような距離。女性達の小声だったが、耳にまとわりつくように入ってくる。しかし、紫魔は何事も無かったかのように料理を口に入れ続けた。

「ええ、間違いないわ。あの……。どこで拾ってきたのかしら……。結局身元も分からずじまいなのでしょう?」
「討伐団に入ったと聞いたのに戻ってきたのね。どういう風の吹き回しなのかしら?」

 咀嚼していたサラダを飲み込み、喉が動く。黙々と皿の上を平らげながら、入ってくる言葉に耳を傾けた。

「私、聞き覚えがあるわ。ほら、もう一人のご子息がお亡くなりになったでしょう。何でも、次期当主を狙っておられるとか」
(拾い子の俺がなれねえって知ってて言ってんのか)
「やだ、あの聖璃様の代わり!?お母様譲りの綺麗な顔してたあの……。なれる訳ないじゃない、どこの道で拾ったのかも分からないのに」
(……アホくせえ)
「でも急に出戻りしてきたのよ?」
「こう考えてはどう?そもそも、聖璃様がそこを散歩してた子どもを庇ってなんて前提がおかしいのよ。そんな事で命を粗末にする訳がないじゃない!」
(!…………)

 す、と視線がそちらへ向いていた。人ごみと照明に紛れる、射殺すような黒い視線が、話している数名の夫人に向かって注がれる。その顔どころか、身に纏うドレスも、手に持つ料理でさえ、なんと――汚らわしいものか。紫魔は、泥を汲み取ってきた手のひらの中にあるフォークを、握り折ってしまいそうだった。
 きらびやかな金物で飾り付けた豚に見えた。むしろ、豚の方を侮辱している。耳の良い彼の前で、一番話してはいけない話が出来るのだから。

「私の息子が何か?」

 穏やかなようで冷たい水が、その場に打たれる。横にいたはずの主は、微笑みのかたちに唇をつくって、彼女らの前に立っていた。決して良くはないことを話していた夫人達は、目線を下げて口ごもる。

「いえ……ただ、聖璃様のお話を……」
「申し訳ございません、マダム。今の私は、あれから一年が経ったと言えど、未だ傷付いております。出来ることなら……亡くなった方の息子の名前は、まだ耳に入れたくないのです」

 うつむきながら零れる正司の言葉に、女性達の化粧で彩った顔には、みるみる同情と哀れみの色が染み込んでいく。

「まあ!ごめんなさい、私達ったら」
「分かっていただければ良いのです。では」

 正司は軽く頭を下げると、紫魔のもとへとゆっくり歩いてくる。折りそうだったフォークを皿へと戻した時、正司は紫魔の肩へと手を置いた。

「少し睨みすぎだよ、紫魔」
「……申し訳ございません」
「分かっている。君に、『聖璃のことは言わせておけ』は通用しない。息子を侮辱されて良い思いをしないのは、私も同じだからね……」
「…………」

 紫魔は、何とも返事が出来ず、空になった皿を机の上へと置いた。頭上のシャンデリアは、絶えず眩しい明かりを注いでいる。

(俺は……)

 こんな、人間だったか。
 合成着色料の賑わいが、預かり知らぬ場所にある。
 あの日から更に、片意地で、頭に上り詰めた思考を散らすことが、難しくなってきた。本郷猛の祖父のように。顔もろくに覚えられず、切り付けられた傷だけが遺った、父のように。
 他の陳腐な言葉など気にせず、己が貫いた道があるならば、それで良い。天道紫魔は、そういう人間ではなかったのか。

 天道聖璃は――そういう人間では、なかったのか。


 平和なパーティに、護衛が出る幕はない。聖璃の根も葉もない話を聞かされたこと以外は、取っ掛かりもなく終了した。
 黒塗りの外車に乗った迎えの者が、運転手を務めた。紫魔は正司と並び、後部座席に乗る。ラジオもCDも流さない車内は、エンジン音が主なBGMだった。
 すれ違う街灯が時折、車のなめらかな艶を際立たせている。紫魔はふと、正司の表情を伺った。基本話好きな正司が発車して三分、紫魔に話し掛けて来ないのは、とても珍しい。チラチラと照らされる堀の深い横顔は、少しばかり曇っているように見えた。
 緩やかなカーブを曲がり、アスファルトの地面を静かに滑っていく。とうに深夜になっていたので、一台の車以外は、人の影もない。スーツと沈黙の黒は宵闇に溶け込み、落ち込んだ空気が、場を満たした。

「紫魔」

 唐突に訪れた音の震え。紫魔は正司の顔へと再び振り返った。

「聖璃がやった事は……粗末だったのだろうか? 君は、どう感じている? ……私は、今でも考えてしまうんだ。あの子はひょっとしたら、本当に下らないようなことで、命を落としてしまったんじゃないかとね」

 紫魔は数秒、押し黙った。しかし、答えはとうの昔に決まっていた。問われる前から、答えはあった。
 音もなく目を閉じる。あの日の枯れた木の色が映る。一際目立っていた、濃い血溜まりが、聖璃の存在を語っている。物言わぬ風景が、目撃者の話よりも、遥かに彼を伝えている。

「アイツは……愚かです。自分が当主だと自覚せず、魔物へと飛び込んだ。居なくなることで、どれほど周りに影響を与えるかも知らずに」
「……そうか」
「しかし。例え愚かであっても、そこに命を賭けました。アイツが守ったのは、子どもの命だけではない。聖璃の噂をする者には、決して分からない物を……身を差し出してまで、守ったのです。俺はそれを知っています」

 聖璃は常に、周囲の人間のために生きていた。その崇高な、気高い魂を力の限り燃やし、前へと進み続けていた。それと同じ事だというのに、対象が一般人の子どもで、聖璃が当主だというだけで――人は、それを天秤にかけ、嘘だとすら思おうとする。
 紫魔は目を開き、正司の目を見つめた。聖璃と似つかわしくない、硬く精悍な眼差し。その瞳に映る己の力強さに、紫魔は一瞬、驚きに似た何かを感じた。

「知っているから、俺はここに居るのです。お父様」

 聖璃の意思と、その魂を。この世界に存在する、誰よりも。
 正司は、それを聞いて、確かに頷いた。返答はいらなかった。そうだな、と、震えた声色の独り言が聞こえた。それだけだった。
 通り過ぎゆく街灯が、正司の頬に伝う雫を照らし出したが、それは無かったことにした。

(聖璃。……お前の双子は、こんなにも……頼もしく成長したんだな)

――――

「立つようになった?」
「はい。昨日、何も掴まらずに立てるようになったのです」
「……」

 屋敷内で忙しなく足を動かしていた紫魔は、すれ違いざま訪れた報告に、思わず言葉を失った。座れるようになったと聞いたのはいつのことだったか。体感は数日前だが、実際は数ヶ月前のことなのだろう。
 彼の前を歩いていた正司は、その様子に、深く息を吐いた。穏やかな声が、紫魔の背中に投げられる。

「紫魔。今日は健と居てあげなさい」
「お父様……」
「あの子は不思議と君に懐いている。なに、一日休暇を取ったところで、神様も悪くは言わないさ」
「……はい。分かりました」
「では参りましょう、紫魔様」

 心なしか、正司も召使も、にこにこと必要ない程に暖かく微笑んでいる。紫魔は居心地の悪さを感じた。自分と健が顔を合わせるたびに、屋敷内は、薄く白いヴェールを纏ったような清らかさに包まれてしまう。天使が天空から見守るように。
 健には勿論、専用の部屋が用意されている。健やかに育つ孫には正司も負けるらしく、父の代わりにあれよこれよと物を与えている始末だ。紫魔はむしろ、それをセーブする側に回っていた。カラフルな音と色に囲まれた健の部屋。落ち着くのはいつになることやらと、紫魔はため息を吐きそうになる。

「あ〜!」

 扉を開けて誰よりも早く、小さな手を伸ばした。その反応の速さに、紫魔は目を見開く。数回顔を合わせただけなのに、自分の顔を記憶しているのだろうか。

「紫魔様。健様は毎日、窓の外に出掛ける紫魔様に手を振っているのですよ」

 疑問に思っていることを、付き添いの召使が耳打ちで答えてくれた。手を振っていると言っても、おそらくは召使の仕業だ。口をつぐんでいたら、スーツのズボンの裾に何かが触れた。

「おー、ぁー」

 四つん這いの状態でぺしぺしと足を叩いてくる。聖璃譲りの絹のような金髪が、短いながらも輝いていた。澄んだ森のような瞳も、見事に父親に似ている。

「……ほら」

 抱き抱えると、きゃあ、と叫びながら両手を上げて喜ぶ。前に抱えた時よりも随分と重みが増していた。
 まさか「成長」というものをこの手で実感する日が来るとは、夢にも思わなかった。一年前の、うっかり握り潰してしまいそうな危うさは、腰を落ち着かせて鎮まってきたように思える。
 まだ、未来は見えない。しかし、将来、彼は紫魔と同じように、スーツを纏って世を渡り歩いて行かなくてはならない。

「ぱー……」
「あ?」
「パパ?」

 胃に鉛が落ちるような心持ちだった。

「俺はパパじゃねえ。ただの……親戚のおじさんだ」

 ふくよかな頬に触れる。褐色の指がその白い肌に触れるのは、未だに、恐ろしい。何よりも、慣れることに時間がかかりそうだった。今まで隣に居た存在が生まれ変わったような身体を、見ることでさえも。
 健の父ならば――愛おしく、慈悲深く、暖かく、触れていたに違いない。この世の何よりも高貴な手のひらに持ち上げられ、気高く育てられたに違いない。その手で子を懸命に守ろうと、この貴族の世界で足掻きながら。

「……お前の父親には、一生成れねえよ」


 その声には、曇天の空から零れ落ちた雫のような響きが宿っていた。

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