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 魔物の討伐はあっという間に終わった。もともと数が少なく、加えて人気もないところだったので、荒らさないようにと気を遣う必要もない。紫魔は依頼人との後始末を雲母とヒカルに頼むと、さっさと依頼地を後にして、電車で地元の駅まで向かった。
 聖璃の子の出産予定日は今日あたりだと聞いている。産まれていてもいなくても、どの道聖璃の気持ちは浮き上がっているに違いない。祝いの言葉をかけるつもりはないが、その顔を一目見るだけでも、向こうは安心するだろうと読んだ。
 暖房がきいていた電車を降りると、外の寒さが厳しく感じ、コートのポケットに手を突っ込む。ふと、指先に硬い感触があった。屋敷までの道を歩きながら、紫魔はケータイを取り出した。

(……なんだ?)

 時間だけ確認しようとして見れば、何やら通知が一件入っている。一通電話が入っていたらしい。しかも、今から向かおうとしている屋敷の元主、聖璃と紫魔の父親からだ。
 かけ直そうとしたが、今、青い空だというのに小さな雪がちらつく、不思議な天気が広がっている。それに、今から向かうのだから良いだろうとケータイをしまおうとした時、手の中でケータイが震えだした。
 再び画面を確認すると、明るい液晶には、ヒカル、と文字が入っている。今しがた別れたばかりのはずだ。紫魔は少し逸れた道に入り、電話に出た。

「なんだ、ヒカル。さっき――」
「紫魔ッ!!」

 通話口から響いた切羽詰まった声に、紫魔は息を詰まらせた。片手間に聞こうとしていた意識を、ヒカルの機械を通して聞こえる声に、集中させる。

「何か、あったんだな」
「…………聞いてないの……?」
「聞いてない?……俺は、今日は特にデカイ報告は何も耳にしてねえよ」
「…………」

 電話の向こうにいるヒカルが、押し黙った。意味あり気な間に、紫魔は問い詰めようとしたが、よく耳を傾けると、向こうから鼻をすする音が聞こえる。喉をしゃくり上げ、は、と息を吐くような。

(泣いている……?)

 こうなれば、いよいよ分からない事態になっていた。紫魔が探っているうちに、ヒカルが、ぽつりと言葉を落とす。

「……聖璃……」
「聖璃?アイツに、何かあったのか」
「聖璃が…………ひじり、が……」

 ――それは小さな呟きだった。落ちてくる雪に吸い込まれて、消えてしまいそうな。
 きっとヒカルも本当なら、言いたくなかったのだろう。今までのいつよりも、か細い音だった。

「…………死んじゃったって……」
「――――は?」

 聞き間違いなのではないか、と、一瞬疑った。しかし、これだけ集中して聞いているのに、そんなことは有り得ない。しかし、その報告こそ、有り得ないものだ。
 入り込んだ道に並ぶ住宅が、灰色になって、いびつに歪んで見えた。雪に紛れて、目の前が霞む。
 すべて、見えている景色が、ひっくり返ったような心地だった。それでも電話は、紫魔の手の中に、しっかりと握られていた。

「……今朝っ、屋敷の近くに魔物が出て……そこ、で……」
「……魔物?」
「足と内蔵、ずたずたにされてた、って……。ッ……後から来て手当しても、間に合わなかったって……!」

 ヒカルの声が、電話口よりも、直接的な距離よりも、遥かに遠く聞こえる。足が恐ろしいほど動こうとしない。胸の中に留まる息が、吐けない。

「なんで……っ、なんで、聖璃がしななきゃ、いけないの……!!聖璃何にもやってないじゃん……っ、討伐団員のアタシらより、なんで……っ、なんで」

 喚きにも似たヒカルの訴えが耳を通るたびに、現実の冷たい風と、実感が、僅かに大きく、太くなり、心の底へと打ち寄せる。

(聖璃が、死んだ)

 死んだ。死。その事実は、紫魔の身体に、まったく浸透していない。
 夢と幻に逃げ込んでしまいそうな内心を、紫魔は片手を握り締めることで堪えた。乾いた褐色の皮膚に爪がくい込み、切れた手のひらから血が滲む。拳の震えを隠すように。
 紫魔は詰まらせていた息を吐き、静かな呼吸を繰り返す。荒ぶる心臓の鼓動を冷静に、平常に戻した。

「ヒカル」
「うえっ……な、に?」
「どこで……戦ったんだ、アイツは」
「え……?えっと、確か、屋敷の近くの林だとか」
「それだけ聞けば充分だ。吐き出すなら別の奴に言うんだな。……切るぜ」
「へ!?ちょっ」

 慌てるヒカルをよそに、紫魔はすぐに通話を切った。もう一度、呼吸を整える。
 言葉が出ない。励ましも皮肉も、今は知らない場所にある。今のまま通話を続けていても、おそらくは何にもならなかった。今の紫魔に必要なのは、慰めではない。

 今まで生きてきた、どんな瞬間とも、別の意味で――紫魔は、ひとりになりたかった。

 森でも草むらでもなく、林となれば、紫魔には心当たりがあった。伊達に、養成学院に入るまで過ごしていた故郷ではない。固まっていた足を動かし、紫魔はそこへと向かった。
 小粒の雪が紫魔の身体を冷やしていく。朝に魔物が出た林なので人通りはなく、うっすらと、土に雪がふりかかっていた。踏んだ所はあっという間に、明るい土の色を顕にする。
 戦闘があった場所は明確だった。魔物の死体こそなかったが、地面の凹凸や荒らされ具合で、今朝にあったという出来事がありありと思い浮かべられる。
 その中で、紫魔が一際目を引かれる色があった。

(……これは)

 濃く、赤黒く染まる土。余程の血溜まりでも出来ないと、これほどの濃さにはならない。それこそ、数分そこに血を流して立ち続け、倒れていないと。普通、戦闘をする時、人間も魔物も絶えず動き続けている。血を流せば撤退しようと考えるし、必死にその場から逃げようとする。普通ならば。

「……。守った、ってのか。……ここにいた……誰かを……」

 紫魔はその場にしゃがみ、その土に触れた。
 その身を捧げ、足が砕けようとも立ち続け、そこにいた生命を守った。守り抜いた。
 想像は容易だった。彼ならば、やってのけるだろう。誰よりも貴族として誇り高く生きた、彼ならば。誰よりも人のために生きた彼ならば。
 くは、と、紫魔は力のない笑いを漏らした。

「ケッサクだ。どんなバカ野郎も負けるぜ。…………なあ、聖璃。ここでお前は、何を考えていた。お前が居なくなる未来に、何を望んだ……?」

 乾いた土をすくいあげても、問いが返ってくることはない。沈黙が空気を満たしていた。
 紫魔は土を地面へ返すと、近くの木の下に腰掛ける。色の違う地面の上に、聖璃の姿を見た。
 光の道をまっすぐに歩き続け、なお、希望を見失わなかった、天道聖璃の姿を。その最期の時まで、誰かのために魂を燃やした。彼が、ただ一つ、願うならば。

『討伐団が忙しいのは承知しているけれど、もし産まれたら一度足を運んで欲しい』
『……うん。大変だけど、僕は幸せだ』
『僕は、お前が幸せに生きてくれたら、それで良いと思う』

『……それでも、未来の天道家を守るために、少しずつ良くしていきたいと思っている』
『今から生まれてくる命のためにも……』

(……お前は。…………聖璃、お前は…………)

 ぐ、と、紫魔は硬く目を瞑った。スーツを纏っていた、穏やかな笑みを浮かべる彼の姿が、暗闇の中にハッキリと浮かんでいる。
 黒々とした何かが吐き出そうだった。衝動的な叫びにも似た何か。それが何なのか、紫魔には、分からない。後悔ではない。虚無でもない。絶望でもなかった。
 ただそれは、力だった。活力だった。
 天道聖璃が死んだ時、天道紫魔は、空虚に満たされると思っていた。かつての、本郷猛のような身体と心に戻ってしまうと。抜け殻のように朽ちてしまうと思い込んでいた。「無くてはならない存在」故に――信じていた。
 紫魔はもう一度目を開いた。暗闇にいた聖璃の姿はどこにもない。しかし、凍えそうな手のひらを、ゆっくりと首に添わせた後、胸元を握る。

(お前は、まだ……。ここに……)

 居ないが、在る。

 天道聖璃からほんのわずかずつ、長い時を経て与えられた、こころと呼ぶには簡単過ぎる意識が。紫魔の胸を潤している。枯れた砂漠のようだった空洞を、未だ満たして。

「……聖璃」

 誰にも届かない声は、白い息混じりに、枯れ木に溶けていく。
 悲しみも、涙も、怒りも――すべて、彼の後ろ姿を引き連れて、滲み、消えていく。カラになりかけた器は、彼の言葉と遺志が、注がれていく。

(お前の、願いは――……)

 紫魔はひとつ、静かに息を吐くと、冷たくなった腰を上げた。どれだけの時間、ここで時を過ごしていたろう。紫魔は色の変わった土を一瞥すると、コートに手を突っ込み、歩き出す。
 もう一度顔を上げた時、紫魔の夕焼け色の瞳には、見たことのない光が宿っていた。



―――――



 聖璃の父という割には、彼の顔に聖璃の面影はない。ハードボイルドが似合う、渋い顔つきだ。ただ、聖璃の私室とよく似た部屋の作りをしていた。
 座っている格式高い椅子は、聖璃のものよりも、やや色褪せている。机も使い込んであった。

「……まさか今来てくれるとは思っていなくて、びっくりしたよ……紫魔」
「はい。お久しぶりです、お父様」

 紫魔が冷静に礼をすると、聖璃の父、正司は力ない笑みを浮かべた。仕方の無いことだ。実の息子を失った直後であるのだから。
 ふと、正司は驚いたように、紫魔の顔をまじまじと眺める。

「紫魔、髪の毛を切ったのかい?前に聖璃から聞いた時、そんな話は聞いた覚えがなかったんだが……」
「先程切りました。少し、鬱陶しかったので」
「そうか……。いや、しかし、その長さは……君が家にやって来た時ぶりなんじゃないか?」
「そうですね」

 紫魔は短く切り揃えた髪に触れる。腰まであった長髪は、ほとんどが路地裏のゴミ箱にまとまって入っている。自分で切ったのでやや不格好ではあるが、今までのように長くもない髪の毛だ、整えなかったところでさして印象は変わらないだろう。

「それより、昼は連絡が返せずにすみませんでした」
「ああ、いや、良いんだよ。神咲さんのお嬢さん伝いで届いたみたいだしね。討伐団で忙しいんだから仕方ないさ」
「……その事なのですが」

 す、と紫魔は一歩、正司の前に出た。紫魔の眼差しが強く、真摯に、正司の目を見つめる。ただ事ではなさそうな雰囲気に、肩を強ばらせた。

「今、チームにも話をしてきました。俺は――討伐団を辞めます」

 その、嘘のような、本当の言葉に、しん、と、なだらかだった空気が鎮まった。正司は喉から言葉が出ず、口を開ける。紫魔はぐっと奥歯を噛んだ。

「…………え?……しかし……」
「分かっています。俺は……身元も知れない拾い子です。聖璃の代わりに正式な当主になることは出来ません」
「それなら」
「しかし俺は天道家の一人です。……天道紫魔です。聖璃の息子が一人前になるまで、俺が出来る仕事をやりながら、その手伝いをすることは出来るはずです」
「…………けれど……それで、良いのかい?それだとまるで執事じゃないか。そんな……息子にお目付け役をさせるなんて、流石に……」
「良いんです」

 狼狽える正司へ、紫魔は、一滴の迷いもなく告げた。

「俺が望んだことなんです。それに、俺は……本来、そういう立場に収まる人間だったはずですよね。拾い子なんて良くて聖璃の従者だったはずなんですから」
「ウン……うん、確かにそれは、そうなんだが」
「お願いします、お父様」

 今一度、紫魔は正司へと頭を下げた。紫魔の言葉はどれも、落ち着いてはいるが、力強い。本当に討伐団を辞め、天道家に行く覚悟を決めている。
 今まで自由に戦場を駆けてきた彼が。聖璃と対を成すように、己のために生きてきたはずの彼が。それはきっと、生半可な思いでは成し遂げられない。
 正司は息を吐いた。数分溜め込んでいたような、深い深い息だった。

「……何故だろう、紫魔。君と聖璃は、双子として似ても似つかないとばかり思っていたのに……今、君に聖璃の面影を見てしまった」
「……俺……が?いえ、そんなことは絶対に」
「似ていたんだよ。あの子が、討伐団養成学院に入りたいと言ってきた、あの時と……。今までずっと家に従ってたあの子が、君を追って入りたいと頼み込んできた時とね」

 ふと、柔らかく、正司が微笑んだ。今まで冷静を保っていた紫魔の心が、初めて揺れ動いた。そんなことあるはずがないと、真っ向から否定する思いが、胸の中に渦巻いている。

「……ひとは、変わるんだね」

 独り言のようにぽつりとこぼれた正司の言葉が、やけに耳に染み付いて、離れなかった。正司は笑ったままで、紫魔へと暖かい視線を送る。

「分かった。今日からまた私が全ての職務を行う。そのサポートと、余裕があるなら向こうの顔を見に行って欲しい……というところかな」
「!……はい。ありがとうございます」
「ただ、君を執事や召使だとは決して思わない。あくまでも私の、ただひとりの息子として居てもらう……いいね?」
「……はい」

 何とも優しい念押しだった。真剣な表情が、かえって紫魔の胸に染み込むようだった。彼のもとに天道聖璃が産まれたことが、ひどく、納得出来る。

 きっと、聖璃が正司ほどの年齢になっていたならば。決してないが、万が一今のことを聖璃に申し出ていたならば。同じようなことを言っていたのだろう。

 紫魔は、申し出を終えた後も、そのようなことをぼんやりと思っていた。失礼しましたと頭を下げたはずなのに、そのような考えの方がぼんやりと、頭を占めている。
 慣れていかなくてはならない。天道家で過ごすとは、そういうことだ。


―――――


「今は静かに眠っておられますよ」
「ああ。そうみたいだな」

 寝息も聞こえないような小さな身体が、母の横で、白いシーツに横たわっている。紫魔はじっと、すぐにでも潰れてしまいそうな命を見つめた。外はとっくの昔に日が沈んでおり、夜中に近い。
 聖璃の子は、聖璃が家から出て行った直後に陣痛が始まり、夕方を過ぎて産まれた。屋敷内で、腕の良い医者に囲まれて産まれた命はすぐには面会が出来なかったが、今になって落ち着いたらしい。
 ひとつの命が失われ、ひとつの命が産まれた。そんな日が、もうすぐ終わろうとしている。

「聖璃様……あれほど楽しみにしておられたのに……一度も、お子様を抱けずに……」
「……ああ」

 隣で涙ぐむメイドをよそに、紫魔はそっと、横たわる生き物に手を伸ばした。まるで、人間ではないようだった。顔も体も整っておらず、手足も小さく、目も見えない。紫魔は指先をその腕に触れた。自分の手が、腕全体を掴めてしまう。その小ささが新鮮で、かつ、恐ろしい。
 新しい命とは、聖璃が守りたかった命とは――こんなにも小さい。こんなにも弱い。こんなにも脆い。こんなにも、儚い。桜の花びらと同じように、生えたばかりの芽のように、すぐに散らして枯らしてしまいそうだ。
 おもむろにメイドの腕が伸びてきて、柔らかい布に包まれた赤ん坊の体を持ち上げる。

「……紫魔様、お手を」
「……」
「どうしても今日中に、抱いて欲しかったのです……。奥様も、聖璃様の不幸で参ってしまわれて……今しか時間がありませんでした。紫魔様に一度で良いから、ご自分の子を……抱いているところを、見たかったと……」

 紫魔は無言で、その身体を受け取った。柔らかく、そして、意外と重みがある。何より暖かい。僅かに足が動き、紫魔の身体が強ばった。そんな小さな動きに、生きている、と実感する。
 慣れない腕の中でも大人しくしている赤ん坊に、紫魔はふと、疑問が浮かぶ。

「名前は決まってんのか?」
「あ……はい。男の子の場合と女の子の場合を、事前に聖璃様が決めていらしたので」

 紫魔は話を聞きながら、記憶の中を掘り返す。そういえば、別々に考えていると言っていた。

「……元気な男の子です。健康の健と書いて、タケル様、と名付けられました」
「――!」

 紫魔は思わず、動揺で、両腕を離してしまいそうになった。寸でのところで理性が働き、どうにか堪える。体が震えそうになるのを必死に耐えた。背筋に冷や汗と衝撃が伝っている。

(タケル……。運命、なのか……。聖璃)

 紫魔はもう一度、腕の中に眠る赤子の顔を見つめた。何も知らず、自分の父が今日死んだとも知らず、眠り続けている無垢な顔。
 漢字は違えど、本郷猛と、同じ名を授かった子。母より父を先に失ったタケル。
 そこに横たわる運命を、紫魔は見つけたようだった。

「……なあ。少し、頼みがある」
「え?……はい、出来る限りなら大丈夫ですよ」


――――


 後日、メイドから受け取ったものを手に、紫魔は聖璃の私室へと入った。
 聖璃の葬儀には出ていない。紫魔が聖璃を弔うことを、彼が望んでいるとは思えなかったからだ。屋敷の者からは出て欲しいと言われたが、墓参りには行くことと、最後の我が儘だということを条件に受け入れてもらった。
 一人暮らしのマンションは引越し、天道家に戻ってきた。もともと紫魔の部屋だった場所は取っておかれていたため、そこへ今日から住むことになる。この家を影から支える、一人息子として。

『僕はお前には、正しいと思った道を生きていって欲しい』

 紫魔は本棚に手を伸ばし、分厚いアルバムを取る。机の上で広げると、写真を貼るスペースと、メモを書くスペースが、別々に用意されている。
 紫魔は一枚の写真を貼った。聖璃が愛した女性の腕に抱かれる、産まれたばかりの聖璃の息子の写真だった。

『ああ、これだけ大きくなったんだなって思えるの、僕は素敵なことだと思うんだ』
「これで良いんだろう?……なあ、聖璃」

 「健 0歳」とボールペンで書き込むと、紫魔はアルバムを閉じて、本棚に戻した。紫魔は私室を出ると、正司の元へと向かう。アルバムは人知れず、主を失った部屋の中で、こんこんと眠り続けていた。

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