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 ――たとえ何をしようと、きみは、物語の主人公になることは出来ない。




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「紫魔。少し、久しぶりだな」
「……何とも、言葉の意味が破錠してるな」

 格式高い椅子から聖璃が腰を上げた時、紫魔は別人を見ているような錯覚に陥った。その装いも、顔付きも、客観的に見れば歳を食っていない若々しいものなのに、まるで違って見える。戦いには不向きな綺麗なスーツも。より柔らかくなった表情も。ただ、髪だけは紫魔と同じように、長く伸ばしていた。
 紫魔を超えるのだと燃えていた彼の灯火は、今、幾分か落ち着いている。当たり前だった。もう、紫魔と祖父が決別をした時から、実に――六年の時が経過していたのだから。

「座ってくれ。紅茶はいるか?」
「いらねえ」
「ふふ、そう言うと思っていたよ。用意させなくて正解だった」

 聖璃に促され、二人は聖璃の私室の中にあるソファに揃って腰掛けた。懐かしい香りがする。かつて青春を過ごした天道家に、今、紫魔はいるのだ。本棚には古びたスケッチブックが相も変わらず詰められている。それに加えて、新しそうな分厚いアルバムが、上の方にしまわれていた。
 
「討伐団の方はどうなっているんだ?」
「変わりゃしねえよ。お前がいなくなっただけで、やってることは一緒だ。前にようやく手応えのある魔物と相手をしたが、すぐに倒しちまった……。魔物には当分期待出来ねえな」
「はははっ、そうか。雲母さんもヒカルさんも元気なら良かったけれど、お前の『シゲキ』は、まだ見つからないのか……」
「ヒカルは最近限界を感じ始めたみたいだからな……もう一人の弟子がどれだけ伸びるかが勝負だ」

 紫魔が気だるげに頬杖を付くと、黒髪が頬の傷の横へ、さらりと流れる。あれからも紫魔の身体にハッキリと傷を付けられたのは、祖父が放った風の刃のみだった。浅い傷ならばすぐに癒える。紫魔の欲を満たしてくれる者は未だに現れていなかった。

「僕の方は順調だよ。やっと貴族としての仕事に慣れてきたところなんだ。心苦しいところもあるけど……それでも、未来の天道家を守るために、少しずつ良くしていきたいと思っている」
「ハ、お前も変わらねえな。半年前に会った時と言ってることが何も変わっちゃいねえ」
「えっ?……そういえば、そうかもしれないな」

 紫魔がくく、と喉を鳴らすと、聖璃は苦笑しつつ頬を掻いた。
 紫魔のシゲキを満たしてくれる可能性のあった聖璃は、今は紫魔を追うことから離れている。天道家の当主として。それを後押ししたのは、紫魔を始めとしたチームヘヴンの面々だった。
 天道聖璃の本来の目標である天道家を守ることを捨て、討伐団員になることは、何より紫魔の意に反した。本来の戻るべき場所へと戻った聖璃は、前よりも随分と大人びている。しかし、その使命と熱意を秘める志は、昔から変わっていない。
 だが今日は、少しだけ様子が違うようだった。思うげに、紫魔から目を逸らして、小さく微笑む。
 
「それでも最近は、より強く思うようになったんだ。今から生まれてくる命のためにも……」
「今から生まれてくる……命?」
「ああ、そうなんだ。今日話したい事があるっていうのは、その事なんだよ」

 はっとして、聖璃は紫魔へと向き直った。閉じた口が物言いたげに動いて、音を発さずに、そわそわした空気が聖璃の周りを取り巻いている。紫魔は片眉を上げた。

「お前がハッキリ言わねえなんて余程の事か」
「う、うん。まあ……」

 聖璃は俯いて、白い頬を赤く染めている。紫魔は呆れたように息を吐いた。

「その反応を見るに想像は付くがな」
「そ、そうだよな。あはは……つい先週、妻が子どもを身ごもったんだ」
「へえ。その報告のために俺を呼び出したってか」
「……分かってはいたけど、あっさり返されると逆に何て言ったら良いのか分からないな。ただ、お前に一番に報告したくて」

 聖璃は肩の力を抜いて、気の抜けた笑みを紫魔へと向けた。緊張していた空気が解れて、紫魔はソファの背もたれへもたれ掛かる。

「俺より喜んでやれる奴なんて星の数ほどいるだろ」
「それでも、どうしても言いたかったんだ。お前は僕の双子だから……。討伐団が忙しいのは承知しているけれど、もし産まれたら一度足を運んで欲しい」

 その言葉に、紫魔は思わず耳を疑った。僅かに目を見開く。

「聖璃……俺がガキの世話が出来ると思ってんのか?」
「そんな、世話を頼もうとは思っていない。一度抱きに来てくれたらそれで良いんだ。どうやっても、お前はこれから『親戚のおじさん』になるんだからな」
「……初めて聞いたぜ、その言葉……。想像が付かねえ」

 紫魔の言葉に嘘はなかった。祖父とだけ共に過ごした子ども時代、紫魔は「親戚のおじさん」に会った事はなかった。聖璃の家に来てからは、聖璃の親族として頭の中で片付けられている。眉間に皺を寄せる紫魔に、聖璃はくすくすと笑った。

「紫魔が僕の子どもにお年玉をあげたりするの、確かに想像が付かないなぁ」
「あ?お年玉?……そういうのもあるか」
「あげてる所を写真に撮って、アルバムに貼りたいくらいだよ」
「ああ……あの新しいアルバム、生まれてくるガキのために買ったのか」

 紫魔はもう一度、本棚へと目を移した。言われてみれば、背表紙しか見えないものの、色味が柔らかく子ども用にも見える。聖璃は嬉しそうに頷いた。

「うん。成長の記録を取っておくのも楽しそうだろう?」
「何になるんだか……」
「こういうのは、後で見返すのが良いんだよ。ああ、これだけ大きくなったんだなって思えるの、僕は素敵なことだと思うんだ」

 聖璃の話を聞きながら、紫魔はぼんやりと、聖璃の幼少期を想像した。
 彼の事は八歳からしか知らない。赤ん坊の頃どのように過ごしたのか、どのように親の腕に抱かれていたのか、紫魔は知らない。しかし、父と母に暖かく抱かれていたのだろうということは、聞かなくても分かった。
 そんな彼が、物心ついた時には両親が視界から消えていた己と兄弟関係にあることを、改めて稀有な現象だと認識する。自分の家で貰うお年玉もアルバムも、紫魔は知らないのだから。

「そうだ、紫魔に相談したいことがあったんだ」
「あ?」

 物思いにふけっていた思考が、聖璃の言葉で表へと引っ張り出された。聖璃は立ち上がって、机の引き出しを開ける。がさごそと紙が擦れる音が聞こえて、紫魔は目を瞬かせた。

「先週から子どもの名前を考えているんだけど、いつまで経っても決まらなくて……まずは男の子から何にしようかなと思ってるんだけど……紫魔も考えてくれないか?」

 切実な頼みだった。しかし、紫魔は心底呆れ返った。

「知るか、お前が考えるモンだろ」
「困っているんだ。『ゆうき』とかも良いと思ったんだけど、ほら、僕や妻と顔が似てしまったら女の人と間違えられてしまうだろう」
「っは、やっと自分が女顔だって自覚したのか」
「うっ……仕方ないだろ、仕事で会う人にかなりの確率で間違えられるんだから」

 聖璃はむっとして言葉を返すが、紫魔は腹から込み上がる笑いが止まらなかった。結局学院卒業まで自覚することがなかった彼が、今の段階になってようやく。
 スーツを着ていてもたまに間違えられるし、とボヤいている聖璃の背は、学生の頃のような鍛錬をやめてしまったせいか、前より細くなって見えた。

「今日一番おかしかったぜ、今の流れ」
「やめてくれ。それより子どもの名前だ」
「好きな漢字から適当に考えりゃ良いだろ」
「好きな漢字かぁ。……健康にいて欲しいから、健とかも良いな」

 聖璃は再び紫魔の横に腰掛けると、持ってきた紙とペンで、さらさらと「健康」の漢字を書き始めた。康史、健一、と付け足していき、ううん、と唸る。
 その横顔を見つめながら、紫魔はぽつりと、ことばをこぼした。

「……幸せそうだな」

 そのつぶやきを聞き逃さず、聖璃は驚いたように紫魔の顔を見返す。

「え?……うん。大変だけど、僕は幸せだ。お前は、変わらないな」
「ああ。俺は今までもこれからも変わらねえ。俺の好きなように生きていく」

 きっと――本来なら、本来の兄弟なら。紫魔の言葉に、少なからず口を出していただろう。おせっかいとも、アドバイスとも言えるようなことを。
 しかし、聖璃はそれを聞いて、静かに微笑んだ。

「そうだな。僕は、お前が幸せに生きてくれたら、それで良いと思う」
「……。幸せね。俺はお前のようになる気はこれっぽっちもないぜ」
「何が幸せかなんて人によって違うさ。討伐団って、いつ命がなくなるか分からないような世界だけど……。僕はお前には、正しいと思った道を生きていって欲しい。離れるようになってから、余計に思うよ」

 聖璃の言葉に、紫魔は否定も肯定も出来なかった。それは、おせっかいでもアドバイスでもなくて、聖璃の願いだったからだ。ふ、と紫魔は小さく笑った。

「少なくとも、戦闘で死ぬ事はねえよ。俺は魔物よりも強いからな」
「はは、そうだな。お前が強いことは、僕がよく知っている」
「当然だ。……さて、そろそろ行かせてもらうぜ。今から任務が入ってるんでな」

 紫魔はゆっくりと立ち上がる。送っていこうと聖璃も立ち上がろうとした時、聖璃、と低い声に呼び掛けられた。

「名前はうだうだ悩むより、シンプルなモンが一番だと思うぜ。……しましまから名付けられた俺みたいにな」
「あ……うん。……ありがとう、紫魔」
「じゃあな。また来るぜ」

 聖璃が驚いている間に、紫魔は振り返らないままひらりと手を振ると、扉を閉めた。まさかアドバイスを貰えるとは思っていなくて、放心している聖璃を置き去りにして。
 聖璃はしばらくその場に立ち尽くしていたが、机に戻り紙を広げると、散らばる漢字の中から、一字に丸を付けた。



 雪がちらつく二月。閏年と呼ばれる、四年に一度しかない日がやってきた。紫魔は身支度を整えると、ハンガーにかけてあった黒いコートを着る。
 天道家に金を支給されて、マンションで一人暮らしを始めた。元々幼い頃はひとりで暮らしていたせいか、そこまで苦労はなかった。家から週に一人派遣が来るので、掃除をする手間もない。物をあまり置かないので、殺風景だった。
 紫魔は鞄から黒い革の手帳を取り出す。年のスケジュールが書けるようにと、この歳の誕生日にヒカルから押し付けられた物だった。確認すると、今日の用事は午前中に終わる予定になっており、午後は空いている。

(……今日の午後、訪問してみるか)

 そろそろ予定日だとか言っていた日のはずだった。紫魔は一息付くと、扉を開ける。吐く息が白い。
 青空だというのに、冷たい風が、コートを通り抜けて肌を刺した。



―――――――


――――


 屋敷の中は朝からざわついている。一人の門番が、腕を怪我して転がり込むように駆け込んできたことがきっかけだった。
 私服に着替えていた聖璃は素早く家の者を集め、指示を出す。

「今すぐ怪我人の手当を頼む!領地外にいる魔物が中に入っているようなら僕が行く!」
「しかし聖璃様……!天道家の当主である貴方みずからが」
「そんなことは今は関係ない!!」

 普段は温厚な聖璃の、張り上げるような声に、その場にいた全員が凍り付いた。決死の表情を作る聖璃の額には、汗が浮かんでいる。その眼光は、周囲を貫きかねない程に鋭い。

「町にいる者を守れないで、何が貴族……っ!!戦える者は出ろ!僕は先に行く!」
「聖璃様、っ」

 目撃されたと言う、屋敷から遠くはない場所に向かいながら、聖璃の頭の中に、かつての記憶が蘇った。――炎に巻き込まれないよう逃げ込んだ、親の役に立ちたくて逃げ込んだ、裏道の森。今回はまた違う場所だが、魔物から紫魔を守れなかったあの日。

(もう、二度と……!)

 握り締める弓に、痛々しい程の力が入る。
 もう、二度と。後悔に押し出されるように、聖璃は愛する街を走り抜けた。鍛錬をしていなかったせいか息が切れる。それでも、脚は懸命に動いていた。
 森までとは言わずとも、自然に溢れる丘の近くにある、林の中。素早く辺りを見渡し、呼吸を整え、耳を澄ます。僅かに唸り声が聞こえるそちらへと、じりじりと、足を動かす。拾い上げた小石を木の枝の矢に変えると、弦に引っ掛けた。

 遠吠えのような鳴き声。恐れはない。木の影から、四足で歩く肢体に向けて、引き絞る。
 その狙いを定めた先の、更に、目線の先。ちらりと、小さな影が見えた。――聖璃のように、魔物は、「獲物」を狙っていたのだ。
 勢いをつけて、魔物はその影へと飛びかかろうと地を蹴る。

(あ)

 すべて――頭から消え去る。
 まっさらな思いだけが、ただ、聖璃を満たした。

 木々に止まっていた小鳥が、小さな翼を動かし、羽ばたいていった。

 繰り出された前足は背を突き破り、爪と、歯が服の繊維に食い込む。生温い鮮血が溢れた。
 守った先にいたのは、幼い兄弟だった。小学校に入る頃の年齢だろうか。腹から滴る赤黒い血を隠すように、聖璃は腹部へ手を当てた。

「――――さぁ」

 唇は赤く染まっていた。別の魔物に脚を切り裂かれ、膝を付く。聖璃は辛うじて動く片手で、そっと、背が高い兄の頭を撫でた。柔らかい髪に触れる感覚は、少しずつ、少しずつ失っていき、指先は痺れと震えのみを残す。
 それでも瞳だけは、柔らかく、暖かい光を、失うことなく。

「行っ、て…………は、やく……。まもって……あげ、て……」

 腹の中から込み上がる血が、口から溢れ出て、白い肌を染める。草が生える緑の地面が赤黒く固まった。足の感覚も失いつつあり、傾こうとする身体を、心が奮い立たせる。
兄弟は兄が弟の手を引き、急いで駆け出した。それを見送った後に、後ろから、突き刺すような獣の悲鳴が耳に届く。後に来た屋敷の者が、退治を始めたのだろう。

(大丈夫、かな。住宅街の中に入ってしまえば、もう安心だろうけど)

 ふわり、ふわりと、浮いて回る思考だけが、聖璃の中に残っている。いつしか、周りから音は聞こえなくなっていた。林がざわつく声も、人の叫びもなく、ただ――暖かい光だけが、聖璃の頭の上に降り注いでいる。
聖璃は、自分から温もりが失われていくのが、分かった。氷のように固まり、やがては、動かなくなってしまうことが。
 けれど。それでも、遠ざかっていく兄弟を思った。残された心だけは、何者も、内に秘められた穏やかな温もりを奪えなかった。
 その魂は、こと切れるその時まで、いつまでも、その場にとどまり続けていた。

(よかっ、た。あの、小さないのちを……ぼくは、まもること、が……でき、……て)
(あの子たちの……ように、…………げんきに…………どうか……)

 まだ見ぬ、見れぬ子の顔を思い浮かべ、聖璃はゆっくりと、心の目を閉じた。
 新たないのちを一度たりとも抱けなかったその腕を、草の地面に横たわらせながら。願いと愛を、雲の上に捧げる。




(…………いきて……)





――青空は、寒い風が吹き付ける中、静かに広がっていた。
 天使のように微笑む高貴なる魂の抜け殻を、太陽の下に暖めながら……。

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