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初夏が近付き、ますます日差しは濃くなってきている。黒く差し掛かる大きな影と、その隣でふらりとする細長いそれは、学院の門の前で一度足を止めた。
「センセェ〜〜。ソイツ強ェ〜?飛んでる?浮いてるゥ〜?走ってたりィ〜?」
シワが目立つ、ごつごつとした指に持たれた写真を覗き込もうとする視線に、咄嗟に手をかざしてストップをかける。
「生吉、勝手に人の個人情報を見るのは良くないね。けれど質問にはちゃんと答えるよ。この子はとても強い……ボクが保証する」
ふと、顔を上げる。まだどこも講義中なのか、グラウンド以外はほとんど静まり返っていた。小中合わせたより長い十年という期限がある学舎から、ひとりの人間を探すのは骨が折れそうだった。
「さてさて、とりあえずその辺の人にきいてみようか?生吉。いい子ならもちろん手伝ってくれるよね?」
「ハァ〜い」
「……ボクも会うのは今日が初めてだけど、どんな子だろうね、智昭の教え子は……」
横から見られないよう、手の中にある写真をそっと覗く。黒髪が靡く浅黒い顔には、夕日のような色の瞳がしっかりと写っていた。
etc.
昼休みになった直後の学院はいっそう騒がしくなる。食堂が込み合うことを予想しながら、聖璃は教科書をしまった。初々しい一年生で大半の人間が出払うのを待ちつつ、いくら席が後方の窓際とはいえ、あくびを隠そうともしない紫魔を横目で睨む。
「紫魔。お前、講義中に何度あくびをしたら気が済むんだ」
紫魔はまっさらなノートとマーキングもない、古くなった教科書をさっさとカバンに詰めながら、もう一度大あくびを噛み殺した。生理現象で涙が出る。
「……ふぁ……あ、俺の勝手だろう?教師も指摘して来なかったじゃねえか」
「それは……お前の成績を知っているからだろうか……。それか本来一年生が受けるような講義だし、退屈になっても仕方がないと思ったんだろうか」
聖璃は正面に見える黒板を眺める。学院に入り、少しずつ慣れてきた時に受けた内容と、ほとんど違いはない。それでも聖璃がしまったノートには、几帳面に黒板通りの文字が並んでいた。
「既に取った講義を六年目になってもう一回聞いてるなんて正気の沙汰かって思われてるかもな」
「良いだろう、基礎は大切だから何度聞いても損はしないはずだ。学院は人数が多いし、気付かれなかっただけという可能性もあるけれど」
話し合っているうちに、すっかり人気は薄くなっていた。聖璃は紫魔がもう一度あくびをする間に立ち上がる。
「今日はどうするんだ?」
「帰るぜ。今からは何もない」
「そろそろ雲母さんと相談して、対抗戦でも入れてもらわないと……きっと僕の身体を気遣ってくれているのだとは思うけれど、強くならなくてはいけないから」
聖璃の傷の回復とヒカルの卒業資格待ちとは言えど、実力がなまってしまっては元も子もない。手のひらを数回握り締めて感触を確かめた後、カバンを掴んで教室を出た。後ろから紫魔も気だるそうに並ぶ。
「……もう戦えるのか」
「うん。心配をかけてすまない、紫魔」
「心配なんざしちゃいないぜ。何度だって立ち上がる……そう言ったのはお前だ、そうだろう?」
「ふふ、そうだね。お前には余計な言葉だったな」
紫魔のけろりとした顔に、聖璃は小さな笑みを返した。腹の傷がようやく完治して学院に復帰出来たものの、周りからは心配する声がよく届いていた。雲母も特にヒカルも散々問い詰められたものだ。あからさまに思えるほど普段通りの紫魔に、聖璃は安心していた。
ふと、紫魔が立ち止まる。のんびり歩いていたためか、行き交っていた人々はすっかりいなくなっていた。しんと静まり返った空気が漂っている。聖璃は目を瞬かせて、鋭く辺りを見回す紫魔を見た。
「紫魔?」
「……嫌な気を感じた。気をつけろよ、聖――」
「見ィ〜〜〜つーけーたァ〜〜〜」
聖璃へ振り返った一瞬の隙に、紫魔の背後から風を斬る音がした。素早く視線を戻すと、目と鼻の先に差し出された刃が迫っている。紫魔は反射的に右腕を動かし、ガッと勢いよく相手の腕を掴んだ。寸でのところで止められた。
「お前ッ……何者だ……」
「ヒヒャハハハハ!!止めたァ〜〜!!スッゲスゲースゲースゲーなァ〜!結婚出来るレベルだぜェ〜お顔ちゃんもチャアンとセンセーの…………」
「………………?」
「………………」
ニタニタと笑みを浮かべていた相手の顔が、一時停止でもされたかのようにぴたりと止まった。顔の上半分は白くシンプルな仮面をしていて、目の色は伺い知れない。上がっていた口角はみるみる下がっていく。
数秒固まったと思ったら、凄まじい勢いで手を振り払った。そのまま踵を返してロケットのように走り出し、近くの教室に入る。
「なっ……!おい、待て!」
「し、紫魔、僕も行くよ」
面食らっている間も与えられず、二人も扉が開いていた教室へと飛び込む。窓は閉まっていて逃げた痕跡はないが、人影も見えない。耳を済ますと、窓際の方から僅かに物音がする。紫魔は入口に聖璃を制すると、足音を立てないようにそっと教室の後ろへ回った。
長机の隅に入り込んで、机の端を引っ掴んでガタガタ震える侵入者がいた。緑髪の後ろ姿に紫魔はずかずかと近寄る。
「お前、話はまだ」
「ァ゛〜〜〜ッッッ!!なんでオメーの方が来んのだろこの人まみれクソ薄っぺらァ〜!!オメーなんてヤダヤダァ〜〜!!」
ひゅんひゅん!と複数の風切り音と共に、小さなナイフが一気に五本飛んできた。
「おわっ、て、おい聖璃!ちょっとこっちに来い!」
「え?わ、分かった」
紫魔は咄嗟に屈んで避けたが、頭上には同じペースでナイフの大型マラソンが飛び交っている。紫魔は横にずれて射程距離から外れると、やってきた聖璃と顔を見合わせて元凶の方へ顎でしゃくった。聖璃は同じように屈むとそろそろと近寄る。
「あの……僕の双子が申し訳ありません、少しよろしいでしょうか?」
「ンァァア?……ンンン、よろしい〜スゲーマジでよろしいぃ」
ナイフの暴投は止んだものの、相手はすっかり涙声になっている。仮面で顔は見えないが、その裏はしっとりと濡れているのだろうか。聖璃は苦笑した後に優しく話しかけた。
「先程の攻撃には少し驚いてしまったのですが、貴方はあの人に何かご用事が?」
「ン〜〜、センセーが探してって言ってたやつとクリソツだったしィ〜」
「センセー?……紫魔、お前僕がいない間に何かやったのか?」
「やってねえ」
今にも堪忍袋の尾が切れそうな紫魔の声に、再び襲撃者は震え上がる。聖璃は慰めの代わりにその頭をよしよしと撫でた。一気に顔が綻ぶ。
「ムァ〜〜、オメーの手クリームシチューみてェでスッゲーイィ〜ィ〜」
「く、クリームシチューですか……?それは初めて言われました」
きょとんとしている聖璃をよそに、向こうはもっともっとと頭を擦り付けて来ている。紫魔は既に見て見ぬ振りをし始めていた。
「生吉ー、どこに行ったかなー?」
「アアァァ!!センセーーーー!!」
大声を叫んだ瞬間、再び聖璃の目の前からパッと消えた。入口で時間を持て余していた紫魔の横を爆走して、明るい声が聞こえた方へ向かっていく。完全にやる気が削がれつつあったが、二人は声の方へ歩いていった。