鍵盤のきみ
「杏樹ちゃんみっけー!」
夜の学校。
移動教室から自分のクラスに戻ろうと、薄暗い廊下を歩いているときだった。
後ろから何かがぶつかったと思ったらもう抱き着かれていた。
このようなことはこの三年間ですでに慣れきったことなので、今更オーバーリアクションをとることはない。
「……反応薄いなあ」
言葉とは裏腹に、嬉しそうに笑うライトを理解することは難しい。
もっとも、彼は他人からの理解など求めてはいないだろうけど。
自分以外の誰かから、愛以外のものは求めていないのだ。愛しか求めていないのだ。
これは他の五兄弟にも当てはまることで、本当どうしてこの吸血鬼たちは皆そんなふうなのかと杏樹は時折ため息をつく。
つまらなくなったのか、ライトが体中を弄(まさぐ)り始めたので、変なところを触られない内にと口を開いた。
「それで、今日は何の用?」
用がなかったら会いに来ちゃだめなの?と真剣に返してきたライトをとりあえず殴る。
「んふふ、ごめんね杏樹ちゃん。じゃあ音楽室行こう音楽室!」
『じゃあ』ってなにさ『じゃあ』って!
ライトの奔放さに内心声を上げつつ、手を引かれるままにそのあとについていった。
*
ライトの場合口では謝っていても顔が笑っているのはいつものことで気にならなかったけれど、そういえば音楽室はシュウの寝床ではなかったかと気にしながら音楽室に足を踏み入れたが、それはまったくの杞憂で。
蛍光灯だけは明々と点いているものの、室内はもぬけの殻。誰もいない。今夜のシュウのサボり場所は放送室か屋上か――とにかく他の場所らしい。
ぽろん、と鳴ったピアノの音に我に返る。
いつの間にか放された手は、寂しそうに少しだけ彷徨って拳をつくった。
「今夜はね、ピアノを弾いてみたい気分なんだ」
連弾でもする?と提案されたが、正直言ってライトの横に座るのが嫌だったので断った。
だって弾いている最中でもセクハラをされる可能性があるからだ。
そんなところまで心配しなくてもいいんじゃないか、と思うかもしれないが、逆巻ライトという変態を舐めてはいけない。決して。
「んふ、それは残念」
ライトは怪しく笑って、鍵盤にそっと指を乗せた。
彼がピアノを弾けるということは以前から知っている。
三年間も彼と同じ学校に通っていると、はじめの一年間だけでも何度かピアノの音を耳にした。
その旋律は、物悲しいエレジーだったり、優しいセレナーデだったり、激しいトッカータだったりと気まぐれに変わった。度々きいている内に、一体誰が弾いているのだろうと気になりはじめ、ある日、音楽室を訪れるとそこにはあのライトがいたというわけだ。
思わぬ来訪者が来たことにライトはたいそう驚いていたが。
粘着系ドSとして定評のあるライトだが、下半身的な意味でのだらしのなさや笑みを浮かべた読めない性格からは想像がつかないほど、紡がれる調べは繊細なのだ。思わず聞き入り、知らぬ間にその曲の世界に入り込んでしまうから、『変態のくせに』と無性に腹が立つ。
正義を語る天使のいない夜の世界で、罪悪と生きる吸血鬼がたった十本の指から生み出す旋律。
それは暗く、激しく、時折穏やかさを覗かせしかし次の瞬間には再びひたすら暗く。
その雰囲気の定まらない様はライトに似ていた。
もしかするとこれは、彼の心なのだろうか。
どこか愛憎を思わせる激動の曲は、なぜかひどく切なく感じた。
――誰かを愛していた。
心の底から、彼女を愛していた。
けれど同時に、憎んでいた。どうしようもなく、憎かった。
彼女に触れ、その愛しさを実感する心安らぐときでさえ、心の奥からはふつふつと黒い波が渦巻き嵩を増した。
血に塗れた彼女を自分だけのものにしたくて――自分だけを、見てほしくて、愛して、ほしくて。
それなのに、殺してしまえばそれはただの屍だった。
「(……なんて、)」
なんて悲しい曲なのだろう。
まるで自らすらも葬り送らんとする曲。
葬送曲。
レクイエム。
いや、実際はそんなに単純なものではないかもしれない。
もっともっと、はるかに複雑で残酷で、それから尊い、両価感情の奔流。
「杏樹ちゃ〜ん? ぼうっとしてると、セクハラするよ?」
いつまでそんなふうに彼の奏でる音をきいていたのだろうか。
気がつくと目の前には自分を覗き込む淡い緑がいて、びくりと肩を揺らした。
「ぼうっとしてないからセクハラしないでね」
ピアノを弾いていた真剣な様子からはほど遠いひょうきん者にすっかり戻ってしまったライトが、少し名残惜しいように思った。
しかしそれとこれとは別でぴしゃりと彼の言葉を跳ね除けると、予想済みだったらしく問答無用で懐に入られた。
なんだ胸でも揉む気なのかと身構えた刹那にはすでに抱きしめられていて。すんすんとにおいを嗅がれる感覚がむず痒く体を捻ると、まるで逃がさないと言わんばかりに腕の拘束が強くなった。
ため息を吐くと「幸せが逃げちゃうよ〜」と笑われるがどの口がそんなことを言っているのかとても腹立たしい。
それにしても抱きしめてにおいを嗅ぐ以外は何もしてこないライトに違和感を覚えると、それを察したらしいライトが「んふふ、たまにはこういうのもありかな〜って。……ていうか杏樹ちゃんはボクをなんだと思ってるの?」と尋ねてきたので、「え? ただの変態だと思ってるけど?」と至極真面目に返すと涙目をされた。
ライトの肩越しに見える景色は深い深い紺碧。
いつか彼の心も、この夜のように凪ぐ日が来るのだろうかと人知れず思いを馳せながら。気づかれないように、彼をそっと抱きしめ返した。
▼ 三つ目はライトとの話。
2013/02/21(2013/03/10up)
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