15
いやな予感がしたのだ。
だから杏樹はトマトクンにサファイアを同行させた。
そう。
トマトクンに危険が迫っているわけではなかった。
なぜか、なぜかこのトマトクン邸で、何かが『起こる』ような気がした。
それは今まで以上に漠然としすぎた勘だった。
だがしかしその勘がよく当たることは、杏樹自身も知っていた。
はじめは杏樹をゲーテと共に連れて行こうとしていたトマトクンも、この杏樹の話をきくと、
『ふむ、なら仕方ない』
と言い、杏樹が薦めるようにサファイアを代わりに連れて行くことを了承した。

果たして。
果たしてその結果。





逃亡者ハニーメリー。
EMU、トラジェディー、AG、SS。
ラフレシア帝国。
ルイ・カタルシス。

それらが舞い込んできて、話がどんどん進むにつれて、杏樹の中では『何かを忘れている』という気持ちがむくむくと膨らんでいった。
それは思い出さなければ取り返しのつかないことになるという、確実な確信があった。
そう感じてはいても、今、今このときになるまで、杏樹は思い出せなかった。

――そう、

『紫のヴェロニカ』、ZOOの元メンバー、『リルコ』が姿を現すまでは。





両脚が使い物にならなくなったピンパーネルが彼女に雌雄の剣で切りかかる。
杏樹は歯噛みして、腰に刺さる『紅』を勢いよく引き抜いた。
遅かった。遅かった。
気づくのが遅すぎた。
留守を任されていながら、この様だった。
冷蔵庫の前では、ハニーとサフィニアが苦しげに倒れこんでいた。
ちらりと見やって、杏樹は舌打ちと同時にリルコへ鋭い視線を向けた。彼女は薄く笑ったままだ。気に食わない。でも構わない。
一気にぐん、と間合いを詰めた。勢いを殺さないまま剣に全体重を預け切り込んだ。リルコの周囲を護るように覆い始めた魔力と衝突し、ばちばちと火花が弾ける。足は止めない。さらに力を加えて魔力を押し切り外へと追いやった。僅か0.5秒だ。
魔術を発動させる時間はやらない。やるもんか。
この家は、わたしが護る。
誰がどうなっているのかわからなかった。
いつの間にかマリアやカタリ、ルーシーが駆けつけてきていたような気もしたが、そんなことには目もくれない。目もくれる暇など、このリルコが与えてくれるはずもなかった。
少しでも気を抜けば殺される。
そんな奴だ、この女は。
昔から。それこそ本当に昔から気に食わない。ただの小娘のくせに、知ったような口を叩く。彼女ほど強くなくても、わたしは真の意味での強い者に何百人と出会ってきた。いや、実際は実力だとわかっている。おそらくもなにも、杏樹はリルコを強者だと認めたくないだけであった。他人を簡単に傷つけ、騙し、貶め、嘲る。マチルダ然り、強くなるほど魔術師というものはそういうものだろうとは理解している。だが、杏樹はこんな最低な女がかつてZOOの仲間であったことを、認めたくなかった。リルコが認めて欲しいと思っているわけではないのは百も承知で、だ。

「――あら、久しぶりね、杏樹」

きくたびに吐き気がする甘い声だった。
杏樹はあからさまに顔を顰めた。

「どうも久しぶりね、あんたの顔なんかもうずっと見たくなかったよ」

本当の意味での畜生とは、こういう奴のことを言うのだ。
強者に近い存在でありながら、人々を蔑ろにするような、こういう奴のことをいうのだ。
言い方は悪いが、そこらへんにたむろして殺しや盗みを働く奴らなんか、リルコのような種類の人種と比べたらまだ可愛いものだ。

「結構な挨拶。嬉しいわ」

リルコは妖艶に微笑む。
その身に纏う魔力の気配は消えている。
しかし、またどこから魔術を繰り出してくるかわからない。
杏樹は腰を低くして両手で剣を構えた。

「ああそう。で、何しに帰ってきたの?」

リルコは、その憎たらしいほど潤いのある艶やかな唇を開く。
まるで呪詛のように妖しい動きだった。

「トマトクンに、」

本当にその言葉には何も載せられていないのか。
何も、何も? 本当に?

「会いに来たの」

下手をするとベティより蠱惑的かもしれない、なんてうんざりした目線を送った。いや、べティは蠱惑的な女性といえど付き合いも長いし好感度が持てるので、そもそもリルコと比べるところからおかしいか。

「見て分かるでしょ?今はいないよ」

見るからにわかりやすくため息をついてやった。
なんだよ、誰も彼もトマトクントマトクン。ああうるさいうるさいなあ。ディオロットは確かにすごいかもしれないけど、現在は現在だ。変わったのだ、彼は。変わろうとしているのだ。そんな彼に、ちょっかいを出さないで欲しい。余計なことをしないでほしい。すごいと褒め称えないでほしい。彼は、そんなことをしてほしいわけじゃない。リルコのように依存して執着してほしいわけでもない。

「……本当、貴女って気に触ることしか言えないのね」

周囲の温度が一気に下がった。
ざ、と地面の芝生に誰かが降りてくる音がした。ああ、マリアたちか。

「そっちこそ。勝手に押しかけておいてそれ? 貴女だって、わたしたちの気に触ることしかしないくせに」

嘲るように笑うと、リルコの魔力が爆発した。





正確には、爆発的に魔術を暴発しだした、ということだ。
ここまで挑発すべきではなかったか、と一瞬だけ後悔する。だが反省はしていない。今は、の話だが。
戦闘中の刹那の悔やみは命取りだ。いつまでもうじうじ悔いていたら、敵にやられてしまう。だからどれだけ非情でも、後悔はしてはならない。
これが、杏樹がこのエルデンおよびアンダーグラウンドで学んだことだった。

――しかし。
しかししかし、これは、これは、


気づくと、トマトクン邸は崩壊し、自分たちは塀の外にいた。
否、正確には杏樹以外は倒れていた。

なんだこれは、なんだ、なんなんだ。


「無様ね」

とただそれだけリルコは言った。
まるで虫けらでも見るみたいに、いや、似ているけど、そうじゃあない。
他人の大切なものを壊す快楽に酔いしれるように、彼女は目を細めた。

マリア、マリアはどこだ。ああ、サフィニアの近くにいる。ハニーメリーもそこだ。でも、このままじゃあ、持たない、マリアは上体を起こそうとしつつも、何か、何か打開策はないか探して焦り顔を顰めている。顔面左半分が血まみれだった。マリアだけじゃない。ユリカも、ルーシーも、カタリも、きゅーも、ピンパーネルも――。これじゃあ、全滅してしまう。
杏樹は、自分の中には『己は人並みより強いのだ』という自負があった。そしてそれは事実だった。それでも、リルコ一人相手に、こんなふうに手こずるのか。マリアのような、なんでもかんでも背負い込んでしまう純粋で健気な子の力を借りなければ、倒すことができないのか。情けない。なんて情けない……!!

「他人の築いて来たものを壊して、愉しい?」

熱く昂ぶる気持ちを懸命に抑えた。抑えようとして、つとめて冷静に問うた。
リルコは哂う。

「そんなこと、尋ねるまでもないでしょう?」

何かタガが外れる音がした。





それからはもう自分が何をしたのか、
マリアやサフィニアが何をしたのか覚えていない。
青白い大鷲の姿を、垣間見た。
結局は二人に助けられたような気がしてならない。
我に返ったときには、リルコは怪我を負っていた。
右足と左腕だ。足は膝から下がありえない方向に曲がっており、腕はだらりと力なく下がっていた。庇う右腕が、どことなく腹部を気にしているようにも見えて、もしかするとそちらも怪我をしているのではないかと思った。可愛そうに、とは全く思わなかった。そう、全く。全くだ。なぜ思う必要がある?こいつは、こいつは仲間達を殺そうとした。他人のものを壊すのが愉しいと言い放った。

「――いいわ。今日はあなたがたの勝ちということにしておいてあげます」

涼しげな美しい貌に、一筋、汗が伝う。
軽く負け惜しみのようにも聞こえた。
ざまあみろと思った。

「さようなら、また会いましょう」

リルコはそれでも、妖しく微笑む。

「あの人によろしく伝えておいてください」

誰が、と嫌味たっぷりに返したのは誰だっただろうか、わたしだったか。
杏樹はもうそれすら判断がつかなかった。
まるで『良い答えです』とでも言うように、リルコは好戦的な、しかしあくまでも穏やかな笑みを零し――
その姿を、消した。

どさりと何かが、誰かが倒れる音をきくのに数秒もかからなかった。



▼ 原作15巻の終盤のワンシーン。杏樹視点
  2012/07/16
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