08/06 エスケープ (2巻前)
※必読にもありますが、特殊設定が特に濃いお話ですので、読まれる際は注意なさってください。
「あ……そうそう」
柳川の古典の授業前。その教室に着いた途端、杏樹は言った。
「わたし授業抜けるから」
「「「「………は?!」」」」
そのあまりにもの衝撃発言に、一拍遅れてから武巳・稜子・亜紀・俊也は声を上げる。
「……あの教師だぜ?柳川だぞ?」
武巳が考え直せとばかりに言い、それに残りの三人がうんうんと頷く。
空目は無関心そうに、窓の外に目を向けていた。
「うん。ちょっと用がねー……」
野暮用だよ。
と笑う杏樹に、次は亜紀が言う。
「……本人の意思は尊重したいけど………。止めといた方がいいよ」
相変わらずの淡々とした口調だったが、
杏樹を彼女なりに心配しているということが察せられた。
「でも……柳川の授業以外に、抜けれるのがなくてさー。
別に古典は単位が足りてるから、いいかなーって。
それにいざとなったら口で丸めこむことができるし」
「わー!すごいねー杏樹ちゃん!」
柳川という教師は、態度が少しでも悪い生徒にはしつこすぎるほど注意や罵倒を繰り返すため、全ての生徒からの評判は悪い。
実際に、何回か空目たちは注意されたことがあった。
杏樹もそういうことはあったのだが、ことあるごとに柳川と理屈で勝負し、連勝中だ。
彼女の言葉に稜子が歓声を上げて、「まあ……それなら大丈夫か」と俊也が呟く。
そして空目が杏樹に視線を向け、一言。
「健闘を祈る」
そんな空目に、杏樹は頷き、
「うん!それじゃあみんな、またあとで!」
颯爽と身を翻し、廊下を駆けて行った。
一体杏樹の『野暮用』とはなんだろうと気になりつつ、武巳たちは席に着いた。
*
――屋上。
杏樹はそのフェンスに前かがみに身を任せて、十字架のペンダントに向かって話をしていた。
風に煽られ、一つに束ねている長く綺麗な金髪が揺れる。
『――ところでどう?今回の世界は』
アルトの妖艶な大人の女性の声だった。
不思議な柔らかい威圧感のある、優しい声音の、しかしそうではない。
声からは若い人物だと伺えるのに、実際はかなり歳を重ねている。
そんな熟練者・経験者のような。不可解な声質だった。
「うん……まあ、楽しいかな………」
杏樹がいつも首に下げているペンダントは、通信機にもなる。
世直しという一族が異世界に行くためには、『世直し』と『世界』の間に“スポンサー”と呼ばれる存在を通さなければならない。
『世直し』だけでは異世界に渡ることができないのだ。
なので“スポンサー”にあたる人物・組織は、異世界への移動が自由にできるものになる。
杏樹の“スポンサー”は二ついて、一つは「真理」と称される存在。
もう一つは「次元の魔女」と畏れられる存在。
今回の通信相手は後者だった。
『“かな”って、どういうことかしら?』
「……色々あってさ………、ちょっと“初めて”のことがありすぎて……疲れてる、かも」
穏やかに問う「次元の魔女」に、杏樹は苦笑気味に応える。
――この世界の『歪み』と『狂気』は解りやすく、大きすぎる。
異界に関わった者の中に、正常な者はいない。
ここの“登場人物”は狂っている。
どこの世界よりも純粋に、純真に、純情に、純潔のごとく歪曲している。狂っている。
それならば、もう自分はすでに正常ではないということだ。
否。様々な世界に関わっている己など、すでに正常ではなかったのかもしれない。
そんな自分が抱く思いは、本当に正常なのだろうか。どこかで狂い歪んでいるのではないか。
自分は「良し」としてやっていることは、真に良い選択なのだろうか。
なにより――己のこの進む道は、合っているのだろうか。
『……杏樹?』
「――え?あ、えっと、何だっけ?」
『はあ……』と、雅やかにため息をつく様がわかる。
『無理は禁物よ?』
ゆったりと、艶めかしく諭す「次元の魔女」。
一方の杏樹は、「百も承知」と言わん口調で。そして「次元の魔女」が自分を心配しているのだと察し、
「うん、わかってる」
口元を僅かに緩めて言ったのだった。
*
「……はー。侑子に心配かけちゃったなあ」
十字架のペンダントを首にかけ直し、なんとなくぼーっと景色を眺めながら、杏樹はぽつりと呟いた。
授業はまだ三十分以上は残っているだろう。
武巳たちが来るまで時間の余裕は十分ある。
それまでに気持ちを整理しておかなければならない。
特に、空目には。空目には、気づかれないようにしなくては。
彼のことだ。気づいてもただそれだけのことで気にしないのかもしれない。
しかしそうだとしても、杏樹は今の複雑な感情を他人に知られたくはなかった。
「――誰だそれは」
「!うっ、空目?!」
物思いに耽っていたところに狙ったように突然聞こえた低い声に、
杏樹はびくっと肩を震わせ後ろを勢いよく振り返った。
この時間の屋上は、やけに静かなので空目の声にいつも以上に驚いたのだ。
「『なんでここに?!』とか思っていそうな面構えだな」
空目は無表情で、杏樹が何か言う前に口を開いた。
「授業を抜けてきた。もともと俺は他の古典教師に気に入られているしな。単位も足りている」
空目の淡々とした言葉に、杏樹は眉を顰(ひそ)めた。
その応えは理由になっていないと感じたからだ。
空目にしては珍しい、曖昧な理由なのだろうか。彼自身の中でも、理屈付けはなされていないらしい。
「ふうん……」
杏樹が不思議そうな表情で相槌を打ったあと、すかさず空目が尋ねた。
「話を戻すが、『侑子』とは何者だ?」
「え゛」
――い、今それを訊きますかー!!
杏樹は自分の不運に叫びそうになったが、なんとかそれを自制した。
「あっはっはーダレノコトカナ?」
誤魔化す杏樹に空目は一言。
「はぐらかすな。……もう一度問う。『侑子』とは何者だ?」
一蹴し、再び訊く空目の表情は、どこまでも無感動で、しかしどこか普段とは違い。
杏樹は、もしかして真面目に問うてくれているのだろうかと錯覚する感覚を覚える。
「………え、えーと……」
どう撒こうか考え、でもこの空目を本当に撒けるのか……と冷や汗を流しながら後退する杏樹と、
「何者だ?」
いつになく強い口調で迫っていく空目。
その姿はまるで蛇に睨まれた蛙のごとし。
「いや、あの……その……」
さらに背中に嫌な汗が伝う杏樹に、
「何 者 だ ?」
さらに強く迫る空目。心なしかこの状況を楽しんでいるふうにも見えなくはない。
基本空目はS気質だ。
鼻先数センチの位置にいる空目の虚構の闇色の目を直視するのがいやで、杏樹は目を逸らす。
この密着した状態に、羞恥する暇など、今の杏樹にはなかった。
――話せばいい。
たったそれだけのことだ。
それなのになぜ自分は、こんなにも頑なに話すことを拒んでいるのだろう。
『こちら』に空目を巻き込んでしまうことが嫌なのか、
それとも、異界に接し狂っている空目(人間)に話すことが嫌なのか。
それ以外なのか。
杏樹にはわからなかった。
そして。
大事なことなのでもう一度言っておくが、空目の属性はSである。
「……ふん。どうしても話したくないのなら、こちらにも手はある」
空目は少し杏樹から身を離し、淡々と言うが、次の瞬間。
「俺の家に居る黒光りのイニシャルGの生き物を、波崎。貴様の前に突き出してやる」
ニヤリと意地悪く口角を上げた。
「ひいっ!!」
ゴキブリが苦手な杏樹は半泣きで仰け反り、
「話すっ!話しますからそれはやめてくださいっ!!」
「それでいい。……で、『侑子』とは何者だ?」
……結局。“スポンサー”やらなんやらを、空目に包み隠さず、全て話すことになる杏樹であった。
――空は。彼ら二人と共に、ひたすら青く、凪いでいた。
▼ ちなみに。ここで登場した「次元の魔女」や「真理」はホリックと鋼錬から。
ものすごくぐだぐだな話で、申し訳ありません……
2011/07/15
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