02 笑ってくれることの、意味
そして次に立ち寄るのが、食堂の調理室。
ここで夜食(といってもクッキーなど、軽いお菓子のようなものだが)を作らせてもらっている。
食堂のおばちゃんと話をすることも少なくないが、そこにいつも出てくる青年がいる。
名を、東月錫也。
全く興味がないと言ったら嘘にはなるが、ほぼ興味がないのは事実だ。
0.1パーセントの希望に賭けるのは、もう飽きた。
そんなことを思いながら、調理室で普段どおり――今日は、クッキーを作る。
食堂のおばちゃんがどこかへ行った。
……調理室も静かになった。
空しいとは思わない。ただ楽だ、と感じるだけ。
こんなふうに感受する私を、他の人間が見ると、気味悪がるのだろう。
「………あれ?」
そこへ、一人の青年がやってきた。
調理室を覗き込み、不思議そうな顔をする。
明るい茶色を帯びた、少し跳ねた髪。一見、柔和に見える青年だった。
無表情に向ける私の視線に気づいた彼は、「ああ、」と声を上げた。
「君が神話科の如月壬槻さん、だね」
いつも食堂のおばちゃんから聞いてるよ。
外見と第一印象、そのままに優しげに微笑む彼に、さすがにこれは返したほうがいいと思い、私は応えた。
「貴方は、」
言って、少し後悔した。
「東月錫也。天文科の1年生だよ」
…………天文科。……もう一人の女生徒、夜久月子のいる科か。
どうでもいいな。
「……そう」
短く答え、再びクッキーづくりに戻る。
形作ったクッキーを、専用の黒いプレートに並べ、大きなオーブンで焼く。
もちろん、火加減を微調整するのも忘れずに。
お菓子をつくるのは基本的にややこしくて面倒だから、私は気まぐれにしかやらない。
だからこの一年間、彼は私の名前だけを知っていて、この場で鉢合わせすることはなかったのだろうと思う。
会話を続ける気が私にはないと察したのか、彼が苦笑したのがわかった。
別にどうとも感じない。
他人にどう思われようが、そんなことはさして関係ないのだ。
やがてチーンという音と共に、クッキーが出来上がる。
オーブンを開けて、しばし待ってから取り出す。
クッキーに練りこんだ紅茶の匂いが鼻に届いた。
「…………それ、紅茶のクッキーだよね」
この匂いは彼も匂っていたのか、少し驚いたように目を見開く。
「一枚、もらってもいいかな」
「……いいけど」
断る理由もなく、しかし承諾する理由もなかったけれど。
まだ熱い、焼きたてのクッキーを、一枚取り、彼は口に運んだ。
眉一つ動かさず、真剣に咀嚼する。
熱くないのかと、猫舌な私は本気で気になりつつ、それを見守った。
「うん、おいしいね、これ」
そう一言。まずはじめに言われた。
言葉とは裏腹に、表情は真面目だったので、一体どういうことかと内心不思議に思っていた私に対し、
「一つ目に、甘さ加減が丁度いい。甘いものが好きな人にも、そうじゃない人にも好かれる味だ。
二つ目は、クッキーの大きさ。これも一口サイズで、食べやすい。
そして三つ目。焼き加減がなんともいえない、絶妙な良さがある」
とどめには、
「俺に、クッキーの作り方を教えてくれないか。…………いやもちろん、君がよければ、だけど」
なんて。
とんだ変わり者がいたものだ。
こんなに愛想のない私に、お菓子作りの講師を申し込むなんて。
彼の言う、『クッキーの作り方』とは、『私が作るクッキーの作り方』という意味なのだろう。
「………別に、いい、よ」
なんと答えるべきか、僅かに視線を彷徨わせて、結局頷いてしまった。
なんだか彼の笑顔には凄みがある。拒否権がないように錯覚させられてしまう。
「そうか。よかった」
すると彼――東月くんは、顔を綻ばせた。
酷く優しげな、笑みだった。私がとうに、求めるのを諦めた微笑みが、目の前にあった。
*
私が寮に帰る道。もう地平線に沈んでしまった太陽は、見えることはない。
ただ橙色の余韻を空に残らせて、あとは群青色が馴染むように広がっている。
「…………」
そんな空を見て、私は眉根を寄せた。
酷く、不愉快だった。
なぜって?
わかりきったことだ。
あれから。どうしてか、私は東月くんのことを『錫也』と呼ばなくてはならなくなった。
本当になぜだ。
料理の話を延々としてくる東月く……錫也は、はっきり言うとうっとうしかったが、時折おいしい味付けの仕方とかを交えて話をしてくれたので、まあまあ有意義なものだった。
送っていくよ、と申し出られたが、私は相変わらずの無感動な口振りでそれを断った。
私に関わる人間など、要らない。
▼ 長かったので、話を二つに分けました。 2011/05/13
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