#14 わたしの知らない彼
「ネズミ!!」
(ガツン、と鈍い音を立てて、カップが床に落ちた。)
*
(緑の風景だった。)
(背の高い草たちの間に、自分が居た。)
(虫の無数の翅音に掻き消されて、風も歌も、聞こえなくなった。)
*
(ネズミに触れて、え、と声を漏らす。)
(思わず紫苑を見たけれど、彼は何も感じていないようで、てきぱきと水が入った洗面器に布を浸して、ベッドの上で苦しそうに息をしているネズミの首筋を拭いていた。)
(先程まで取り乱していたのが嘘のようで。そんな紫苑をネズミの一言だけが諌めたのだと思うと、少し、ほんの少しだけ怖かった。)
「…………」
(さっきのは、なんだったんだろう。)
(と、杏樹は心の中で思う。)
(あれは一体、何?)
(どのくらいそうしていたかはわからない。
気づくと、ネズミが起きて紫苑と一緒にダンスを踊っていた。)
(ハッとしてネズミを見ると、ネズミは視線に気づいていつものように口の端を上げた。)
(ほっと、息をつく。よかった。よかった、いつものネズミだ。)
(――わたしは、紫苑のように、あんなふうに心配して、取り乱すべきだったのだろうか。)
(――わたしは、それができないくらい、酷薄な人間なのだろうか。)
(ネズミが倒れた時、)
(心臓が止まるかと思った。)
(実際、息が止まった。)
(息が止まって、体も動かなくなって。)
(ネズミが、ネズミが、ネズミが、)
(え、え、どうすれば、どうすれば、)
(いやだいやだいやだいやだ、なんでネズミなのどうしてネズミなの、わたしじゃないの苦しむのはわたしじゃないの、なんでネズミが苦しまなくちゃいけないのわたしにしてよそうだよかみさまわたしじゃなきゃ、)
(――死んじゃいやだ、)
(だけど紫苑みたいに、何かをするということはできずに。
きっと、紫苑がいなかったら、ネズミは苦しさで死んでいた。
わたしは、何もできなかった。)
「ネズミ、」
(紫苑の声が、部屋にこだました。)
(ベッドの上で、二人並んで座っている。わたしは我に返って、それを傍らで眺める。)
「ぼくには知らないことが多すぎるけれど、きみを失うことが、ぼく自身にとってどのくらい怖ろしいことか……それだけはわかっている。たぶん、誰より……杏樹と同じくらい、きみを失うことを怖れている」
(紫苑の紫の瞳がこちらを向く。)
(一瞬、言葉が出なくなった。)
(本当に、紫苑なの? これが、本当に紫苑?)
(――だとしたら、ああどうして、そんな色をしているの紫苑。)
「怖くて、堪らない。きみが決して、ぼくの前から消えたりしないことを確かめたいんだ」
(紫苑、紫苑、紫苑……!)
(だめ、紫苑は、変わっちゃいけない。
ほかのなにが変わっても、世界の何もかもが変わっても、あなただけは、きみにだけは変わってほしくない……!)
「――きみが嘲笑おうが、軽蔑しようが、それがぼくの本音だ」
(紫苑、紫苑、ねえ、そんな色の目を見せないで。
あなたは違うでしょう? そんな暗くて冷たくて、今にも何かを抉って壊してしまいそうなほど危うい色の目では、なかったはずなのに。
紫苑の瞳は、もっと綺麗だった。もっと、ずっと透き通った色をしていた。
純粋で、純情で、優しくて、柔らかくて――そんな色を、していたはずだった。)
(おやすみ、というベッドから立ち上がった紫苑の声に応え、「杏樹ももう寝る?」という問いに、かろうじて「……ううん、まだ、寝ない」と返した。)
(「そっか」と笑い、紫苑がうず高く積まれた本の陰に消えた。)
(――わたしが知っていた紫苑は、紫苑だった。)
(ううん、わたしが知っている紫苑も、紫苑だったというだけなのだろうか。)
(その何もかもを、享受し、適応してしまう純粋さがあったからこそ、この危うい感情が、紫苑の中で生まれたのだろうか。)
「…………、あれは、……」
(ネズミが、首を押さえたまま半ば呆然として呟いた。)
「本当に……紫苑、なのか?」
「、…………」
(『そうだ』とも『そうではない』とも『わからない』とも答えられなかった。)
(どう答えるのが適切か、相応しいか、杏樹にはわからなかった。)
(単純でまっすぐな愛の告白の、その裏のあの紫苑の感情を、ネズミはきっと目を見て察してしまったのだろう。)
(何も知らなかったのはおれだった。そんなふうに思ったりして。)
(それは、わたしも同じだった。あれが、紫苑だなんて信じられなかった。)
(紫苑が怖い。)
(そんな思いを抱いたことも、初めてだった。)
(あれは、――あの目は。)
(ネズミを失えば、いつでも人を殺せる目だった。)
(紫苑が変わっていくことが怖かった。)
(わたしの知らない紫苑に変わっていくことが、怖くなっていた。)
(この世界で、変わらないものなど存在しないにもかかわらず、わたしは、紫苑は変わらないと思っていた。変わらないでいてほしいと、願っていた。)
(ネズミが、紫苑と出会ったあの4年前を境に、変わり始めたように。
わたしが気づかなかっただけで、紫苑も、あの日から変わり始めていたのかもしれない。)
(そう思うと、余計に、ひどく、怖くなった。)
(紫苑が怖くて、)
(だけど、あれは、ちゃんと紫苑だから、)
(わたしは目を固く瞑って、爪が食い込むほど掌を握って、その恐怖に耐えた。)
▼ 原作4巻より。なんだか、アニメは原作と順序が違うのでこんがらがりますが……。
ともあれ、紫苑の危うさに夢主とネズミが気づいた回でした。
2011/09/19(2013/10/19up)
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