毒花繚乱 | ナノ


「これにてお役御免だわ」


花宮と入れ替わりでこちら側に帰って来た原はそう小さな声で言って、ぷくりと風船ガムを膨らませた。原によるみょうじ奪還は失敗に終わった訳だが、それは原の実力不足であったのか、それとも原には元々みょうじを奪還する気なんてなかったのか。恐らくはその両方なのであろう。
「さーて、どうなるかねえ」。口元に笑みを浮かべながら原は呟いた。全く、こいつも本当に良い性格をしている。そんなことを思いながら、俺もさてどうなるものかと花宮の背中に目を向けた。その向こうでは氷室が冷たい視線を花宮に向けており、その更に向こうでは紫原と並んでみょうじが事の経過をただ見ていた。
氷室が突然騒ぎ出した理由は、大方予想がつく。まあ普段の俺たちの様子を見れば、蔓延っている悪評も相まって、ウチの中に酷い仕打ちを受けている奴を見出すのは不自然な流れではないだろう。氷室は運の悪いことに、花宮がみょうじを丁度罵っているところを切り取って見てしまったに違いない。その5秒前若しくは5秒後であったなら逆にみょうじが花宮を罵っている場面であったろうに。どういう経緯でみょうじと氷室に繋がりがあるのかは知らないが、氷室のようなタイプはこれ以上みょうじをウチに置いとけないとすぐに行動に移しそうだ。それで、このザマ。花宮にとってもみょうじにとっても俺たちにとっても、気の毒なんだか自業自得なんだか分かりゃしない。向こうに突っ立っている紫原だけは、間違いなく気の毒だが。


「君、何しに来たんだい?」
「お前じゃねえ、そこの女に用があんだ」
「随分となまえに固執するんだな」
「…俺のやり方についてこられる人間は限られててな」
「ついてこられる…?君が引きずり回してるだけだろ」
「お前こそ、ウチのマネージャーに何をそんなに固執してんだよ」
「なまえはもう霧崎第一のマネージャーじゃないよ、それに友人が罵詈雑言を浴びせられているのを見たら…放っておけないだろ」


氷室は語気を強めた。花宮は「埒が明かねえ」と舌打ちをした。原が「ねーねー瀬戸くん、罵詈雑言ってどっからが罵詈雑言だと思う?」と尋ねてきたので、ウチで言えば挨拶をしたらそれは世間一般で言う罵詈雑言だと返せば、原は一言「ウケる」と零した。


「おいみょうじ」


この状況に痺れを切らしたのか、それから花宮は氷室を飛び越えてみょうじに向かって声を飛ばした。みょうじは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしていた。ただ、それはみょうじだけの話ではなく、此処にいる花宮(と紫原)以外の全員が同じであろう。


「選べ、こいつか、俺か」


花宮がみょうじに投げた選択肢はこれ以上無いくらいシンプルなものであった。且つ、氷室に文句を言わせないものであった。そして、みょうじがもし陽泉を選んだならば同様にウチも文句は言えないリスクもあった。花宮としては、その時はその時なのだろう。これ以上この問題に時間と労力を割くのは賢明ではない、と。…花宮個人の感情がどうなのかまでは知らないが。


「…氷室、」


暫しの沈黙を経て、みょうじはぽつりと零した、「氷室」と。みょうじの答えに紫原が分かりやすく嫌そうな顔をするんじゃないかと予想したが、その無表情を隣のみょうじにのそりと落としただけであった。
花宮がくるりと此方に向き直り「おい、帰るぞ」と俺たちに言った。花宮も花宮で、無表情であった。俺たちは、ザキでさえ、何も言わなかった。ただ花宮の背中に着いて帰路につこうとした。


「…なんて言う訳ないでしょ、バァカ」


しかし、みょうじの答えには続きがあったらしい。みょうじの小さな声が、僅かに鼓膜を揺らした。その聞き慣れた言葉に反応しもう一度みょうじに視線を向ければ、それはみょうじの元に歩み寄ろうとしていた氷室に向けられたものであった。


「今年から大きく体制が変わった所と言えば、ウチの他に黒子と火神の入った誠凛、そしてアンタ達が加入してダブルエース体制になった陽泉。キセキの世代でもない火神と氷室は特にデータが少なかったし、紫原はキセキの世代とは言えこの性格。試合見てもイマイチ掴みづらいところがあったけど…何となく分かったし、もういいわ」


今まで、不自然な程に口を噤んでいたみょうじは突然にぺらぺらと喋り出した。「なまえ、」と小さく零した氷室にみょうじは「氷室あのね、勘違いしないで欲しいんだけど」と続ける。


「私は私の意思であそこにいるの、あんまり邪魔しないで」


みょうじは俺たちを指差しながら、氷室に向かって凛と言い放った。氷室はそれを聞き、一呼吸置いて諦めたような表情で笑い「…そう」と呟いた。全く、なまえにはいつも叶わないな、と。それから、みょうじと紫原の元へ再び足を向け、「アツシ、付き合わせて悪かったね。練習行こうか」と笑った。「本当だよ、お菓子タンマリ奢ってもらうから」と紫原は無表情で言った。
氷室はその何処か困ったような穏やかな表情をもう一度みょうじに向けた。そしてその整った顔をぐいとみょうじの耳元に近づけ何かを言い、それから頬に口づけをした。突然の出来事に俺の頭の中に住んでいるコンビ芸人が「欧米か」と頭を引っ叩いた。


「…やられっぱなしは性に合わないんだよねー」


氷室がみょうじから離れた後、今度は紫原がみょうじにぐいと近づいた。かと思えば、みょうじをひょいと抱き上げ、此方に向かって「そーれ」とぶん投げてきた。あの巨体、見たまんまに相当の馬鹿力らしい。それでいてコントロール力も持ち合わせているらしい。みょうじは宙に放物線を描きながら花宮の元にピンポイントで綺麗に飛んできた。流石の花宮も「うお」と驚きの声を上げた。俺たちは無様にも慌てふためくが、誰もどうすることも出来ずみょうじと花宮はナカヨク勢いよく再開し、そのまま地面に崩れ落ちた。


「痛ってえな受け止めろよバァァァァカ」
「こっちのが痛えに決まってんだろふざけんなバァァァァカ」


そして、キャプテンとマネージャーは起き上がることも忘れて秒で喧嘩を始めた。それを見て氷室は複雑そうな表情で笑い、紫原はフンと鼻を鳴らして居なくなった。

今後の後始末等心配事がビッグバンを起こし各地に散乱しているが、まあまあと古橋がみょうじを、俺が花宮を宥めながら、ひとまずは罵詈雑言に満ちた"ウチの"日常が戻ってきたようで、良かったような気がしないでもない。眼下に広がったこの光景に、そんな平和ボケみたいなことを思ったりした。




未完成パラノイド
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20170730