「あー……。俺、見た目ほどチャラついてない自信あったんだけどな」

 眼前の男は、少しだけ苦しそうに、自嘲気味に笑った。背の高い花巻にこう壁際に追いやられてしまえば、花巻の影はなまえに被さるように降りかかる。普段は飄々としており、気の知れたクラスメートといえども、この状況下では威圧感を感じざるを得なかった。

「あんま言い訳じみたこと言いたくないんだけどさ、俺、お前のこと好きだったんだ。ほんとに。手出しそうになったから後付けで言ってるんじゃない。好きで、でもこういうの抑え切れる自信あったんだけど、悪い、俺自分のこと買い被ってたわ」
「……花、巻」
「……ごめん、今名前あんま呼ばないで。っつか、ほんと勝手でアレなんだけど、逃げて。今のうちに。お願い」

 教室ではよく笑って細められていた瞳が、今は欲情に濡れかかっていた。形ばかり笑う口許が、花巻のなけなしの理性であろうことは、本能的に理解した。

「……私が逃げたら、どうなるの?」
「取り敢えず、みょうじの身の安全が保証される。俺は頭冷やす」
「じゃあ、逃げなかったら?」
「……俺が頭冷やせないから、みょうじの身の安全が保証されない。……なあ、怖くねえの?俺、今最後の理性と良心振り絞ってんだけど。もう持たねえよこれ」

 花巻は既に、形式上でも笑わなくなっていた。
 なまえの頭の中には、砂時計と、掛時計の秒針の音が概念的に映され、鳴り響いていた。判断の淵に立たされている。

「……怖い。花巻、いつもと違うから」
「俺も怖ぇよ。怖がらせることもしたくなかったし。だから、早く、俺から離れて。自分でこんなことしといて矛盾してるみたいだけど」

 花巻の声は縋るようで、そして同時に色気を孕んでいた。酔ってしまいそうだった。既に判断力が鈍ってしまっているのかもしれない。秒針の音がコツコツと聞こえる。砂時計の砂がさらさらと落ちる。

「……花巻、」
「っ、なあ、もう本当に……」

 もう一度、眼前の男の名前を口にする。花巻は苦しそうに、苛立ったように表情を歪めた。
 砂時計の砂が、落ちるスピードを急速に早めたところで、砂が落ちきった。
 秒針の音が、止んだ。

「ごめん花巻、今は離れたくない」

 決して大きくはない目を、花巻は見開いた。構わず、花巻の両手首をゆるく握る。

「お前、」
「正直怖いよ。でも、花巻が好きって言ってくれて、嬉しかった。今もどきどきしてる。だから、離れたくない」

 これまで、花巻への思いを自覚したことはない。一緒にいると楽しいクラスメートだった。でも、こんなことになって、恐怖は感じても嫌悪は感じていなかった。
 今まで見たことのない花巻を、もっと見てみたいと思ってしまった。意識なんてしたことなかったのに、今はっきりと分らされてしまった。
 女の本能が、この男に捕われてみたい、蹂躙されたいと言っていた。

「私、ずっと花巻のこと好きだったのかもしれない」
「かもしれないって……お前、もっと自分を大事にしろよ」
「花巻だったら良いって思ったの。それに、花巻が選ばせてくれたんじゃない。私が、花巻から逃げないって選んだの」

 花巻の表情は本当に怖かった。特に目が、真っ直ぐにこちらを見ていすぎて、怖かった。
 緩く掴んでいた花巻の手首が、いとも簡単に振り解かれて、代わりに花巻がなまえの手首を捕らえた。

「……俺は、もう散々止めたからな。後悔しても知らねえぞ」

 花巻はなまえに顔を寄せながら、低く、早口で言った。なまえは身体を固くし、反射的に眼を瞑る。それとほぼ同時に、余裕なく唇を重ねられた。

 恐怖の中に、好奇と甘美がじわりと広がった。




heaven or hell
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2020.01.03