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『ごめん、今日体調が優れなくて行けそうにないです。今度美味しいコーヒーゼリーでも奢ります。本当にごめんなさい。』



襲いくる倦怠感と闘いながら打ち込んだ文をなんとか送信し、スマートフォンと腕を一緒に投げ出す。それから布団の中でもぞりと動いて体勢を変えた。ここ最近涼しくなってきたから、素肌に触れる布団はいつにも増して心地がよい。けれど、どこか肌寒くて、身体の中は不快な熱さが支配している。どうやらわたしの身体は強く不調を訴えているらしいのだ。
せっかくの休日、今日はお昼から伊月と会う約束をしていたけれど、とても行けそうになかった。

射し込んでいる朝の光は、カーテンに遮られてとても弱々しい。一人でベッドに横たわっているとこの部屋は本当に静かで、"咳をしても一人"とはよく言ったものである。今日はなんだか、どんな一日よりも長く感じられそうだ。…ああ、頭が重い。首から下の体勢を変えたい欲に従うか、それとも頭の動きたくない欲に従うか、回らない脳で考える。そんな時、スマートフォンが着信を告げた。伊月だろうかと、腕を伸ばして画面を確認すればやはり伊月で、わたしはスピーカーマークをタッチしてもしもしと今日初めて声を出した。



「…大丈夫かって聞こうと思ってたけど…あんまり大丈夫じゃなさそうだな」

「…おはよう伊月」

「ああ、おはよう」

「ごめんドタキャンしちゃって」

「いいよそんなこと。それより、風邪?熱は?」

「風邪…?分かんない、咳とかはないよ。熱は測ってないや、…気持ち37度台」

「気持ちってみょうじお前…」

「まあそのうち良くなるし、心配ありがとう、今度埋め合わせも兼ねてコーヒーゼリー奢るから」

「…ああ、楽しみにしてる」



わたしの声は終始、自分でも驚くくらいに”病人”であった。確かに体調は悪いのだけれど、本日第一声であったことと、何より精神的なものも左右している気がする。病気になると人肌が恋しくなる、みたいな。特に見たい番組がある訳じゃないけど、テレビでもつけようか。この部屋の一人の静けさはなんだか物寂しくて、体調を悪化させてしまいそうだ。溜め息を一つ吐き出せばそれがまた病っ気を含んでいて、思わず眉間に皺が寄った。ああ、嫌だなあ。
やっぱり眠ってみようか。布団をまるまる被って、静かで暗いのが当たり前の空間を無理やり作り出して、この体調の悪さも変に弱った気持ちも、全部眠って忘れてしまおうか。





ふと意識を取り戻した。着信を告げる音が部屋に鳴り響いている。どうやらぐだぐだと考えているうちに眠ってしまったらしい。寝ぼけ眼のまま、手探りで音の発信源を掴み眼前に持ち上げれば、画面が移して出していたのは伊月俊の三文字。



「…もしもし」

「…ごめん、寝てた?」

「ううん、起きた」

「…今、みょうじん家のマンションの前にいるんだけどさ、行っても大丈夫か?」

「…え、うん?大丈夫、だけど…、え?」



突然の申し出に戸惑っていると、スピーカーの向こう側で伊月が、ふっと少しだけ笑ったのが分かった。それから、じゃあ今から行く、とだけ残して電話は切られてしまった。間もなくしてインターホンの音が響く。誰かがわたしを訪ねる音。そうだ、伊月が来てくれると言ったのだ。伊月の声を反芻して、今漸くその言葉を消化したわたしは今日初めて布団から出て、立ち歩いた。伊月です、という真面目なそれに、不覚にも胸の奥がきゅうと締まるのを感じた。オートロックを解除する。心臓がとくとくと音を立て始めた。どうしてだろう。わたしは今、伊月がこの部屋に来てくれるのを、今までのどの瞬間よりも心待ちにしている。まだかな、まだかな。あと十秒数えたら来るかな。

十秒と少し、正確には十四秒を数えた頃、インターホンの音が二回、鳴り響いた。伊月があの扉のすぐ向こうまで来てくれたという合図だ。小さく息を吐く。胸の鼓動が身体中に響いているのを感じながら、鍵を開けそっと扉を開いた。



「よ、悪いな体調悪いのに立ち歩かせて」



伊月の声が直接鼓膜を揺らした。



「熱測った?」

「は、測ってない…」

「はあ?みょうじん家って体温計無いんだっけ?」

「…あったような、無かったような、」



口元がはくはくと、言葉も覚束無い。きっとわたしの身体は今、熱を持ってかんとする部位が多すぎててんてこ舞いになっているに違いない。重い頭と煩い心臓を抱えたまま、靴を揃えているその背中に「コーヒーでいい?」と聞いたら「お前は俺をそんなに酷い奴だと思ってたのか」と溜め息をつかれた。



「いいから寝てろって」



熱出してる人の代表みたいな顔して、全く。伊月は呆れたような表情でわたしをベッドに追いやった。渋々布団に入り、天井の白を視界に映していると、冷蔵庫を開ける音が聞こえた。わたしはそんなに何度もあの男を家に上げた訳ではないけれど、全く伊月は変なところでデリカシーにかけるというか遠慮が無いというか何というか。まあいいけれど。
目を閉じてまた小さく息を吐き出す。この部屋に音がしている、人の気配がある。それだけで酷く安心した。



「!?なに、」

「何って、冷えピタ」



突然の額への感覚に閉じていた瞼を思い切り開ける。いつもの涼しい表情をした伊月が其処にはいた。お前それ熱少なくとも38度はあるよ絶対。伊月はそう言いながら腰を下ろし、組んだ両腕をベッドの縁に乗せた。



「…伊月は、どうして今日来てくれたの?」

「どうしてって、まあ…予定なくなっちゃったし、元々お前と会う約束だったし、行くかは正直迷ったんだけど」

「うん、」

「でもさっき、みょうじの顔見た時、来て良かったって思ったよ」

「…え?」



伏せていた目線を上げる。頬杖をついて目を細めた伊月が口元に薄く弧を描いて見せた。少しの沈黙を置いて、電話じゃ確信持てなかったんだけどさ、と付け足した。それを聞いて、元々熱を持った身体が更に、頬に熱を集めていくのを感じた。伊月は全部お見通しだったのだ。



「…そういうとこ、本当ずるいよね」

「え?」

「…何でもない」



嬉しいのと同時に、何故だかは分からないけど、少し悔しかった。伊月はずるい。



「…ねえ伊月、わたしが寝るまででいいから手握ってて、何か話して」

「は?」



面食らったような表情には構うことなく、布団から右手を差し出した。伊月はわたしの手を数秒見つめた後、諦めたように「はいはい」と笑って手を重ねてくれた。

身体は重く、関節も何だか少し痛い。けれど、この時期素肌に触れる布団はやっぱり心地良くて、部屋には漂う空気はもう寂しくなんかなくなっていた。
後期の履修まだ悩んでるコマがあって、なんて話す伊月の声に耳を傾けながら、わたしはこの繋がれた右手から伝わる優しい体温をただただ感じていた。



サイレントララバイ
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20140928