過去はいつだって美しい。 どうしてだろうか、その時間を過ごしている時よりも、思い返した記憶の方が、懐かしさや、もう二度と同じ瞬間を過ごすことの出来ない儚さが相まってか、より輝きを増すような気さえしてくる。 なんだか真っ直ぐ家に帰る気分にはなれなくて、私は正門をくぐった後、学校の最寄りの駅とそこに繋がる線路を見下ろすことの出来るベンチへ足を運んでいた。駅のホームには、私と同じ、氷帝の制服がちらほらと見受けられる。空を見上げれば、もうすぐ群青に染まりきるであろう美しい紫色に、星がいくつか瞬き始めてた。 (…跡部も、空を見上げることがあるのかな) その少し不思議な色の美しさに、先程まで思い返していた人物の顔が重なった。 今まで部活で毎日のように顔をつき合わせていたうちの部長様だったが、引退してしまうと、途端に一緒に過ごせる時間が減った。減ったというか、ほぼ無くなったに等しい。私と跡部を繋げる共通項はテニス部しか無かったのだ。 自分の跡部への気持ちを自覚したのはいつだったろうか。もうはっきりとは思い出せない。けど、自覚したところでどうこうしようとは思わなかった。私はテニス部の一員として、あの日々を大切にしたかったのである。 しかし、いざその日々を終えてみて、まさかこんなにも寂しく感じてしまうだなんて、引退する前は思っていなかった。とんだ誤算である。 電車がスピードをゆるゆると落としながらホームに滑り込んでくる。そのスピードはやがてゼロとなり、中から人が吐き出される。それを待って、先程までホームにいた人が吸い込まれていく。発車を知らせる駅メロが鳴ると、ぷしゅう、という音がして、やがて電車は再び動き出す。 いつもの風景。日常。きっと、あの当たり前の景色ですら、そう遠くない未来には懐かしむ対象となっているのだろう。 そろそろ私も帰ろうか。ここでうだうだ感傷に浸ったところで何かが変わる訳でもなし。 あの紫は、この短時間の間にどれだけ群青に侵食されただろうか、ともう一度空を見上げる。 「わ…!?」 「俺様がいるのに気付かないとは何事だアーン?お前それでも俺の元マネージャーか?」 しかし頭上の美しい空の色を確認することは叶わなかった。何故なら私と空の間には、先程までは無かった筈の美しい顔面が挟まっていたからである。その美しい顔面の持ち主、跡部は私の顔を上から覗き込んでいた。 「ちょ…跡部、何してんの、びっくりしすぎて口から心臓出るかと思った」 「お前が気付かないのが悪い、カンが鈍ってんな」 「跡部がこんなとこいるなんて思わないよ、なんでいるの」 跡部は私が自らの存在を認識したことを確認すると、今度は私の隣に腰を下ろした。急展開すぎて、受け答えがしどろもどろになってしまいそうで嫌である。この男の周りは基本急展開であるけれど、跡部の言う通り、カンが鈍ってしまっているのか、久しぶりの跡部のスピードに頭がついていかない。 「なんで俺様がここにいるかだと?お前それでも俺の元マネージャーか?」 「さっきはスルーしたけど、私跡部の元マネージャーじゃないからね、氷帝テニス部の元マネージャーね」 「…フン、そろそろみょうじが寂しがってる頃かと思ってな、会いに来た」 「…」 会いに来た。心地の良い低い声が鼓膜を揺らし、一瞬思考が停止する。 駅メロがまた鳴った。ぷしゅう、という音を鳴らして電車が動き出す。私はそれを見送ってから、隣の跡部の顔を見た。 期待してはいけない。 「…その物言い、うわあ跡部久し振りだね」 「アーン?照れ隠しはいらねえよ。俺が気づいていないとでも思ったか?」 跡部は、綺麗なアイスブルーの瞳を細めて可笑しそうに笑った。 …この男は全く、本当に何をしに来たのだ。暇じゃあないだろうに。 そう、きっと跡部は、引退する前から私の気持ちに気付いている。全く、人を弄ぶのはやめてほしい。 「…何、私が寂しがってると思って、わざわざこんな何もないところにまで足を運んでくれたの?そんなの、跡部だって私に会いたかったんじゃないの?」 「…そうだと言ったら?」 跡部の声色に、心臓がひやりとした。もう一度、隣に座る跡部を見る。跡部は、もう笑っていなかった。 真剣な、少し怒っているような、それでいてただの無表情のようにも見える。 「そうだと言ったら、お前はどうするんだよ」 「どうって…」 急すぎる話に、私は動揺していた。 だって、私は今まで、跡部とも自分の気持ちともうまく距離を取ってきたのだ。もしかしたらこの気持ちは一方的なものではないんじゃないか、なんて偶に持ち上がる自惚れを抑え込んで、マネージャーとして健康的な距離を保ち続けてきたのだ。跡部だって、それに気付いていた筈だ。 それなのに。 「俺様だけ勘付いてるってのもフェアじゃねえからな。いいか、一度しか言わねえ。 …俺は、お前が好きだ」 跡部は、私の頬に手を添え、真剣な眼差しでそう言った。 それは、想像もしていなかったような、けれども同時に、ずっと待ち侘びていたような。跡部が私に告げた言葉は、そんな言葉だった。 「……おい、なんとか言えよ」 「…ええ?俺様だけ勘付いてるって、なに。私が跡部のこと好きじゃないって可能性は考えないの」 「万が一にもねえだろそんなこと」 少し震えてしまった私の精一杯の強がりに、跡部は自信たっぷりに即答して見せた。それが心の底から悔しくて、私は悔しいと一言呟いた。跡部は満足そうに笑った。 「跡部、」 「…なんだ」 「会えなくなって、思ったより寂しかった。私、跡部のこと好き。…悔しい」 「ふ、そうかよ」 跡部は目を細めて笑い、私を自分の肩に抱き寄せて頭を撫でてきた。 ここが、ずっと置いていた距離の先か。 なんだか居心地が悪くて、しかしそれと同時に幸福感も押し寄せてくる。 「これからは堂々と俺に会いに来ればいい」 跡部の制服からは、跡部の匂いがした。 そのままの体制で目線を空に持っていけば、染まりきった群青色に、零れ落ちてきそうな星々が散っていた。 この匂いは、隣にいるこの人だけは、美しい過去にならずに、ずっとずっと今であり続けてくれますように、なんて。 まるでおとぎ話のように流れて行った流れ星に、そう願わずにはいられなかった。 /20180906 |