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「腹減ったな〜」



眼前の男は、まるで十代の少女のように両肘で頬杖を付きながらそう言った。定時も超えた18時過ぎのことである。



「早く晩メシ食いてえなあ〜」



そう思うなら前々から分かりきっているやるべき仕事は前広に、定時内にやれ、となまえは内心毒づく。勿論口には出さないが。

丸井ブン太。一度聞けば嫌でも忘れないインパクトのある名前は、その仕事ぶりも併せて社内に知られている。つまりは営業部のエースなのである。昨年度末に社員表彰を受けている様子をなまえも見た。



「みょうじさんは今日晩メシ何食うんすか?」



…疑問形と来るか。私は、今、お前が今しがた定時を過ぎてから持ってきたこの今日締切の書類チェックをしているのに、疑問形で話しかけてくるのか。
これだから営業部の奴らは好きじゃない。自分たちが外回りしていることを盾に、社内提出物をすぐ疎かにする。総務の私からしたら営業の成績がトップだとかビリだとかは心底どうでもいい。必要な書類を期限までに提出し、社内通知に目を通しそれを実行するか否か。大事なのはその部分。



「…それより丸井さん、こちらの申請書、不備があるので受け付けることが出来ません。もう定時も過ぎてますので、来月分として明日以降またお持ちください」

「不備ぃ?ウッソ完璧だろぃ」

「まず捺印がありません」

「あれこれ捺印いるんでしたっけ」

「提出書類には基本捺印をお願いしています」

「あーハイハイ、判子ね。大丈夫大丈夫、今押しちゃうんで」



そう言って丸井は自分の上半身のあちこちに手のひらを当て始める。どこかのポケットに入れたと思い込んでいる印鑑を探しているのだろう。よく見る光景である。きっとこれは、学生時代、ロッカーやスクールバッグの中身の整頓をする気も起こさなかった人たちが、そのまま社会に解き放たれた姿なのであろう。大体この手の人間は、「あれ、やっぱりデスクの引き出しかもしれない」とか言って慌てて自分の部署のフロアに戻っていくのである。



「あれ、引き出しに入れたんだっけな」

「…丸井さん、もうこれ以上は待てません。明日、10時迄にお持ち頂ければ特別に今月分として承認しますから、今日はもう諦めてください」



ノートPCのモニターは、スリープモードになっていた。予想以上にこの男に時間を食われてしまったようだ。

うちの総務は残業が少ない。勿論、社内ルールに変更が生じた時や社内イベントの前後は忙しくもなるが、今の時期はトラブルでも起きない限り、定時で帰ることが出来る。要するに、定時を30分以上も過ぎた総務のフロアには私と丸井ブン太しかいなかった。



「マジすか!いやあ、いつもお手間かけさせちゃってすみません」

「そうお思いになるのなら、書類は前広にご提出願います。いつも言っていますが」

「…みょうじさん、もう帰ります?」

「定時を過ぎていますので」

「じゃあ、一緒にメシ、行きません?」



丸井の雑談に短く答えながら、PCからの決まり切った「シャットダウンしますか?」の質問に「はい」とマウスを介して答えようとした時だった。手元が狂って「いいえ」をクリックしてしまった。書類を突っ返したぶりに、丸井の顔を見る。



「…行きませんけど」

「お詫びといっちゃあれですけど、奢りますよ」

「行きません」



何を突然言い出すのかと思えば。「そっかー行かないかー、残念」と言い、丸井は先程私に突っ返された書類を興味なさそうにひらひらとさせている。
大体、どうして私が社内の、それも営業部の男と個人的に食事に行かなければならないのか。お詫びってなんだ。そんなものはいいから期限を守ってくれ。



「あのさ、みょうじさん」

「…まだ何か」

「俺のこと、いつも締切日当日の定時後に書類出してくるだらしない営業部員って思ってます?」

「…思ってないと言ったら嘘になりますね」

「…俺、みょうじさんが担当じゃない書類は、全部期限守ってるんすよね。それ、どういう意味か分かります?」



空いていた椅子の背もたれに無造作にかけていたジャケットを手に取り、丸井は困ったように笑った。



「…嫌がらせですか?」

「ブー、はずれ」

「…」

「いや、そう言うんじゃないかなとは思ったけどさ…」



丸井は溜め息をついた。溜め息をつきたいのはこっちである。意味が分からない。こんな茶番に残業代を付けさせるのは、愛社精神の薄い私の心も流石に痛む。



「…俺、こう見えて営業成績トップだから、仕事結構出来るんすよ。営業だけじゃなくて、書類の提出スケジュールも把握してるし、社内通知も目通してる。けど、みょうじさん担当の書類だけは、ちょっと遅らせて持ってくるようにしてる」

「…」

「だって定時後に持ってくれば、みょうじさんと二人で話せるじゃん?」

「…………は、」

「…だーから、俺が、みょうじさんのこと、狙ってるってこと」



頭の上に大きなタライが落ちてきたかのような衝撃が走った。空いた口が塞がらない。
「全く、仕事モードなのか知らねえけどニブすぎだろ…」と不満げに丸井がぼやいている。
え、何、私と定時後に話したいが為に、わざと書類をぎりぎり期限過ぎて持ってきてたって?いやそれ公私混同、言語道断。え?



「そーいうワケだから、俺のこと、これからはもう少しだけ気にかけてくれると嬉しい」

「…気にかけるって、」

「あ、遅延した書類大目に見てくれってことじゃないから。男としてってこと。ま、もう口で言っちゃったしこれからはちゃんと提出すっけどな」

「…」

「んじゃ、明日朝イチでこの書類持ってくっから、シクヨロ!あ、あとメシも考えといてな」



丸井は余裕そうな笑みを浮かべ「お疲れ様」と総務フロアを後にした。
先程シャットダウンしそびれたPCのモニターには、やる気なさそうなデスクトップ画面が映し出されている。シャットダウンしなきゃ、とマウスに手を被せれば、自分の手が僅かに震えていることに気づいた。

明日、朝イチで持ってくるー…。

丸井はこの問題発言を重ねた翌日、何食わぬ顔して私の前に現れるらしい(どんな顔をして来る、とまでは言っていなかったが、まさかあの丸井が照れた顔やら申し訳なさそうな顔やらをして現れるわけがない。)一体私は明日、どんな顔をして丸井ブン太を迎え入れろと言うのだ。
意識したらあの営業部エースの思う壺だ、と頭では分かってはいるのだが、
…分かってはいるのだが。

明日は、ファンデーションを普段より丁寧に乗せ、チークはやめておこうか、なんて赤面対策に無意識に思考を巡らせていることに気づき、なまえは頭を振った。



「…なにがシクヨロだよ、ばか」



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20180826