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春という季節は酷く気まぐれだ。初夏のような陽気だったり、かと思えば真冬の寒さに戻ったり。雪が舞ったり桜が舞ったり。雨風の調子も、日によっててんでバラバラ。
しかし春とはそんな季節である、ということを考慮すれば、人々の心が掻き乱れやすくなるというのも仕方の無いことなのかもしれない。




春に乗せる疾走




曇り空の下、昨夜の雨をしっとりと含んだ桜の花びらがはらりと舞う。スプリングコートの肩に落ちてきたひとひらは敢えてそのままに、両手をコートのポケットに突っ込んだまま見上げれば桜の木々が視界に映った。バックには灰色の春の空が広がっている。こんなにもすっきりしない天気だというのに、この締まりのない空気感が、やはりうららかな春を感じさせる。
ああ、春とはなんて人を複雑な気持ちにさせるのだろう。この浮き足立ったような気温は、まるで俺を嘲笑うかのようだ。



「…」



俺たちは、この春晴れて大学を卒業し、来月からは社会人となる。俺は、大学も会社も東京を選んだ。別段この便利な東京をわざわざ離れようという気にもならなかった。しかし、勿論同級生達の中には、進路となる大学や会社を地方から選ぶ者もいた。そしてその中に、高校二年から大学の三年まで付き合った彼女も含まれていた。
彼女が地方の企業に就職する、ということは昨日、彼女の口から電話越しに聞いた。もう暫くこの東京ともお別れだから、久しぶりに会って話がしたい、と。俺は大分混乱を見せてしまったが(そもそもスマホの画面に彼女の名前と着信中の文字が表示されたのを見た時点で相当混乱した)、今日この約束を交わした。確かに、別れて以来滅多に会わなくなってしまったとはいえ、それが滅多に会えなくなってしまうに変わるのは少し寂しい気もした、…なんて。
俺はきっと、自分が思っている以上に戸惑っているのだ。彼女の電話越しの声がこんなにも懐かしく感じるなんて。桜の花に彼女との思い出が鮮明に思い返されるなんて。未練だなんて、無い筈なのに。そんなもの、あったら今日会うだなんてそんな約束絶対に取り付けないだろう。俺は、ただ、今となっては彼女の一人の友人として、彼女を見送りに行く。そんな自覚を(謂わば勝手に)もっている。

ぽつり。灰色の空から一粒、雫が頬に落ちる。見上げればそれはまた一粒、もう一粒、と続いた。また雨が降り出したのだ。春の雨。手に持っていた傘をさす。待ち合わせ場所へと向かう中、景色は徐々に見慣れた街景色へと姿を変えていった。
学生皆が重宝するあの角のコンビニ。飲み会のあと必ずと言って良い程通ったあそこの二階のファミレス。全然時間通りに来ないバスの停留所。彼女とたまに遠回りして歩いた少し人通りの少ない、秋には金木犀の香るあの細い小道。
彼女は、この前の卒業式、袴を着たのだろうか。きっと着たのだろう。卒論は、どうだったのだろうか。研究室では、どんなことをしていたのだろう。何故、彼女は地方に就職を決めたのだろう。春からは、どんな企業に就くのだろう。…何故、今更俺に連絡を寄越してきたのだろう。
俺がひとりで考えても分かりようがない彼女への疑問が、次から次へと湧いては俺の中に留まる。俺はどうして今日彼女と会うことを承諾してしまったのだろう。俺は彼女に会いたいのだろうか。いや、会いたくない訳じゃない。嫌いになった訳でもない。けど、会ってどうするつもりなのだろう。彼女は、俺に会いたいのだろうか。いや、会いたいと昨日言われたから今俺は待ち合わせ場所である駅に向かっているのだ。じゃあ、会いたいって、どういう意味なのだろう。

降り始めた雨に昨日のような激しさはなく、今日はしとしとと降り注ぐような雨だ。まるで春の草木を潤すかのような。



「…なまえ、」



ふと、立ち止まって彼女の名前を小さく呟いた。それは殆ど無意識的な行動であった。瞬間、雨が傘の上を転がり落ちる音が、アスファルトに弾かれる音が、やけにクリアに聞こえてきた。



「…」



それから、俺はもう一度、歩き始めた。先程よりも早足で、駅へと向かう。きっと、彼女の顔を見れば、声を直接聞けば、全部分かる筈だ。彼女の気持ちも、自分の気持ちも。それが俺は知りたかった。

春の雨の中に佇む、慣れ親しんだ駅。そのすぐ側のかつての「いつもの場所」。其処に、見知った柄の華奢な傘が開いているのが見えた。彼女の物だ。
俺は拳を握り、少しの勇気を振り絞って彼女へと歩み寄る。彼女は、俺が声をかける前に、その傘を翻して振り返った。



「光樹…」



/20180322
イメージソング:花は桜君は美し/いきものがかり