log | ナノ


他の国がどんなとか知ったことではないが、少なくともこの国は実態というものを無視してすぐに改善策(という名の改悪策)を生み出すのが得意な輩がやたら多いように思う。
というのも、最近取り沙汰されている労働問題、中でも残業時間云々は生死に関わる問題であるとして、やんややんやと世間では騒がれている。そこで偉い人たちは、世間からの個別バッシングを未然に防ぐべく、何とか我々労働者たちを早く退社させようと考えた。そして、その結果がこれである。



「…ねえ森山さん、」

「なんでしょうみょうじさん」

「あっつくないですか此処」

「くっそ暑い」

「なんで森山さんこんなくそ暑い中残業なんてしてるんですか、真面目なんですか」

「俺?俺は真面目ですよ。真面目以外の何物でもないですよ。普段から見てて分かりません?」

「いや私真面目なので普段別に森山さんのこと見てないです、すみません」



この馬鹿みたいに暑い季節に、定時を1時間過ぎたら冷房は全館オフにしてしまおう、そうしたら皆暑くて帰るだろう、という無理やり過ぎる策、以前より更に死の方へ追いやってるとしか思えない。
そんなんで仕事が減る訳がないこと、子供にでも分かる。仕事の量変わってないのに帰れるかよ。環境が悪化して、集中力は低下し、仕事の効率は下がり、寧ろ残業時間が増えるだけだ。
…なんて現場の意見が、自分たちの考えを信じて疑わないお偉いさんたちに通る筈もなく、真夏の夜に、労働者の一人である私が、現にこうして今パソコンのキーボードを叩いている次第である。と、同時にこんな環境でバリバリ仕事をこなせる筈もなく、早く帰りたい気持ちを行動に移す元気もなく、同じく若手残業組でデスク斜め向かいの、森山さんに声を掛けてみた次第である。



「いやあこの定時後クーラー撲滅キャンペーンがさ、世間がクールビズ認めた後で良かったですよね」

「…確かに。森山さんポジティブですね」

「まあまあ、そんなに褒めないでくださいよ照れるなあ」

「いやそんなには褒めてないですよ、っていうか森山さん、せっかくクールビス認められてるのに律儀にネクタイしてるじゃないですか。死にたいんですか?」

「死にたくはないけど、ネクタイ緩める動作って女の子に人気あるじゃないですか。これで俺にキュンとしてくれる子がいるかもしれないと思ったら、毎朝ついつい締めちゃうんですよね」

「ふーん」



他愛もない会話は、昼間と比べて大分人もまばらになったオフィスで意外にも続いた。
ああ、なんだかもう働いてるって感じしないなあ今。仕事も会話も何の生産性もない。それもこれも、クーラーがきいてないのが原因だ。本当にもうやってられん。



「みょうじさん仕事あとどれくらいやって帰るんですか?」

「…あとどれくらいやればいいんでしょうね…この書類一山の処理終わったらかなあ」



頭がよく動かないながらも、森山さんの質問に、デスクの上に積まれた紙束をつまみながら答える。定時直前に私の元にやって来たこいつらは、目を通した限り中々面倒そうなものが多かった。それを思い出して、自分の中でまたやる気が1ステージ下がったのを感じた。



「…森山さんはあとどのくらいやって帰るんです?」

「俺は…そうだな、実はもう区切りはついてる」

「…は?」



森山さんがにやりと笑い、私が素っ頓狂な声を上げるのとほぼ同時に、外から「ドン」という音が続け様に聞こえてきた。この丈夫な窓を突き抜けて私たちの耳まで届く、というのは相当大きな音なのだろう。



「おお、もう始まっちゃったか。…今日、花火大会あるんですよ、知ってました?」



森山さんも音に反応して窓の外に目を向け、それから壁掛け時計を見たあとに、言った。



「花火大会…。ああもうそんな時期ですか、」

「その様子だと知らなかったみたいですね」

「そりゃあ知らないですよ。寧ろ森山さんなんで知ってるんです?」

「そりゃあ知ってますよ」



森山さんは答えになっていない答えを口にしながら笑い、席を立った。ああ残業仲間がまた一人減っていく。私もいい加減気合い入れてとっとと今日の分を終わらせなくては。そう漸く心を入れ替えて、森山さんに「お疲れ様です」と声を飛ばし、書類に目をかけた。
だがしかし、その書類に影が落ちた。顔を上げれば、その影は森山さんがつくったもので。
森山さんは私のデスクに、左手を支えに体重を預け、こちらを伺っていた。



「お嬢さん、今日の分はもうその辺にしておいて、俺と花火大会行きません?」

「…は?」

「頑張り過ぎはよくないですよ、クーラーもきいてない部屋で」



私の本日二度目の素っ頓狂に、森山さんは気にせずぺらぺらと喋る。今日は暑いけどよく晴れただの、冷えたビールはきっと美味しいだの。



「…だから、行きません?」

「…」

「ね?」




半透明の蛍




比較的近い距離で、森山さんはそのきっちりと締められたネクタイを僅かに緩めながら、小首をかしげた。
その声に、少し汗の滲んだ首筋に、ネクタイを緩める手首に、まさかきゅんとしてしまったなんて。

全部、定時後クーラー全館オフを決めた偉い人たちと、それを実行した総務の人たちのせいだ。そうに違いない。




* * *
20170723