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かつかつと、数式が黒板に並び立てられていく音が午後の気だるい教室に響く。わたしはその様子を頬杖を付きながら眺める。

(…綺麗)

何度見たってそう。澤村くんの字はとても綺麗だ。
字は、一つのプライバシー、個人情報。指紋と同じ様に筆跡鑑定だってある。それはその人を表すモノの一つだから。みんな同じ文字を書いている筈なのに一人一人違う。澤村くんの字は、習字を習っている子たちのような綺麗さはないけれど、少しだけ右肩上がりの横棒とか、まるでボールの様にすとんと落とされた縦棒とか、しっかりとした筆圧とか、澤村くんの人柄やクセなんかがそこには凝縮されているようで、つい魅入ってしまう。緑色の板に鮮やかに映える白色は、正に澤村くん。菅原くんと笑っていたり、潔子ちゃんにお礼を言ってたり、後輩くんたちを見守っていたりする彼の、頼り甲斐のある優しい字。





金星の傾く音





澤村くんが前で解いた問題の解説で、今日の授業は終わった。担任の、あっても無くても変わらないようなショートホームルームを聞き流した後、いつもならば真っ直ぐ帰路につくところだが、今日はそうもいかない。定期的に平等に回ってくる日直、今日は私がその当番なのだ。地味に放課後にも少しだけ仕事がある。

授業から解放された教室は、いそいそと部活に向かう人がいたり、何も言わずすっと出ていく人がいたり、誰々の家に押し掛けようとはしゃぐ人たちがいたり。しかしそうやって賑やかだった空間も時間を追うごとに徐々に疎らになり、音が減っていき、やがて私一人になった。空は橙が青を少しずつ侵食している。
私は自席に着いて昨日日直だった澤村くんが書いた隣のページに、日誌をつける。自分の字はあまり好きになれない。それが大好きな字の隣に並んでしまえば益々気になる。本当に、字は人を表す。
それから黒板をまっさらな状態に戻す作業に移る。この綺麗な白を消してしまうのは勿体ないと思いつつ、黒板消しを上へ下へと滑らせる。その様は、少し傷の浮く緑色が明日の準備を始めているみたいだ。
そして、黒板右下の日直名に手をかける。澤村くんの書いた私の名前。今朝登校して見た時も思ったけれど、やっぱりなんだか照れ臭い。これを書く時、澤村くんは少しでも私のことを考えたのだろうか。



「…みょうじ?」

「っ」



そんなことを考えていたら突然、私のものではない声が教室の空気を揺らした。完全に一人だと思っていた為に、私は黒板消し片手に肩と心臓をびくりと跳ねさせる羽目となる。けれど、ああ、この声の主は知っている、昨日此処に私の名前を書いた――



「さ、澤村くん…」

「悪い、驚かせちゃったな」



澤村くんはうちの高校の名前がプリントされた黒いジャージを着て立っていた。バレー部のものだ。わたしは自身の心臓を落ち着かせながら口を開く。



「どうしたの、忘れ物?」

「ああ、ちょっと部活の書類机ん中入れっぱだったみたい」



澤村くんはそう答えて自席の机の前にしゃがみ、プリントを数枚取り出すと「良かった、あった」と笑った。しかし、その微笑みは数秒で消え、立ち上がってわたしを見つめ、今度は眉を下げた。



「…ごめん、オレ字間違えてた?」

「えっ?」

「いや、さっきからずっと黒板の前立ってたからさ。昨日みょうじの名前書いたのオレなんだ」



そう言われて、体温と心拍数がぐんと上昇する。澤村くんはいつから教室にいたんだろう。私はどれだけ此処に立っていたんだろう。…やばい、恥ずかしい。



「ちがっ、間違ってない!ごめん!その、澤村くんの字がね、綺麗だなーって、思ってまして…」

「…字?」

「うん、わたしすごく好きなの、澤村くんの字」



そう笑顔で言い切ってしまえば、橙に染まる教室にぽかんと沈黙が広がった。
…何を言っているんだわたしは。正直者か。急いで弁明に弁明を付け足そうと口を開きかけるが、しかし先に澤村くんが笑った。



「オレ字褒められたの初めて」

「…」



黒いジャージは澤村くんによく似合っている。というより、そのジャージが似合うような時間を澤村くんが過ごしてきた、という風にも見える。目を細める澤村くんを見て、ぼんやりとそう思った。



「そっか、字か」



いつの間にか澤村くんも黒板の前に来ていて、教卓に置いておいた日誌を手に取りぱらぱらと眺めたあとぱたりと閉じた。



「字だけ?」

「……へ?」



わたしよりも幾分高いところから視線が落とされる。その、笑っているような、いないような、初めて見る表情に、時間が止まってしまったような感覚に陥る。喋れない動けない、澤村くんから目が逸らせない。自分の心臓の音がやけにクリアに聞こえてくる。



「…はは、ごめん今のナシ。…オレこの後職員室寄るからついでにこれ出しとくよ。おつかれ」



しかし暫くして(とは言ってもきっとものの数秒なんだろうけど)澤村くんがそう言った瞬間、止まっていた時間が動き出した。澤村くんは日誌をぱたぱたと振り、笑って教室を後にした。

(…明日の日直の人の名前、書かなきゃ)

もう見えなくなった背中を暫く見つめた後、ふと、我に返る。まだ開けたままの窓から吹き抜ける風が頬に当たって、やけに涼しく感じた。



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2014.04.20