log | ナノ


そう、全ては昨日の夜から狂っていたのだ。
もうお前らも三年だから、と鬼の様に出された英語の課題の存在を昨日夕飯を食べた後に思い出したおかげでわたしは、それはもう鬼ヶ島に向かう桃太郎の如く、日本刀ならぬシャープペンシル片手に闘う羽目となったのだが、しかしそれも新聞配達のバイクが走り始めた頃やっと終わりが見えてき…たところまでは何とか記憶がある。というのも、その後、どうやらわたしは世にも恐ろしい“寝落ち”というものを経験したらしいのだ。寝落ち、というのはつまり眠りに入る準備をしていないまま翌朝を迎えてしまう、という意味な訳で、ということはつまり携帯を充電器にセットしていない、という意味でもある訳で、ということは携帯の充電が切れる、ということはアラームが鳴らない…。





花の嵐の戯れの





「なるほど、それで今日遅刻ぎりぎりなんだ」

「寧ろアラーム無しで遅刻しなかったわたしを褒めてほしい」



意識が戻った時にはいつも家を出る十分前。このわたしが朝食も摂らずに、しかし最低限の身だしなみだけは整えて今さっき何とか正門に滑り込んできたのだ。察しが良い菅原は教室でわたしを見るなり「どうしたの?」なんて声掛けてくれるから、なんだか朝からべらべら喋ってしまった。



「おつかれ」

「…菅原も、おつかれ」

「えっ?」

「朝練」

「ああ、うん、ありがとう」



昨夜からの怒涛の出来事を吐き出したら少しだけすっきりして、それと同時に菅原の方が絶対に大変であったろうことに気づいて、ちょっと色々反省した。うわあ、バレーやりながらあの量やったのか、すごいなあ。それでいて、こうやって笑うんだもんなあ、ずるいよ。そりゃあ一年の時から見ていたら、菅原が実は努力家で頑張り屋さんだってことは嫌ってほど感じさせられる。周りのこともちゃんと見てて、面倒見とかも良くって、もう何なんだお前、って感じ。これってわたしフィルターかかってんのかなあ。



「朝からしょうもない話聞かせてごめん、はいこれどうぞ」



わたしは制服のポケットを漁り、飴玉をふたつ、ころりと菅原の机に転がした。隣の席というのは、腕を伸ばせばすぐ届く距離。ふとした時に心臓が音を立ててしまうようなことが起きたり起きなかったりして、すごくくすぐったい距離。今だって、実はちょっと緊張したり。



「…へー飴玉準備する時間はあったんだ」

「?いや、コレはポケット常備…ってかどういう意味よ」



菅原は飴玉みたいに目を丸くして少し驚いたあと、白い歯を覗かせていたずらっ子みたいにニヤリと笑った。下から覗き込むように視線を向けられて、心臓がまたどきどきし始める。ああもう、自宅からの全力疾走で速まった鼓動がやっと治まってきたところだったのに。



「な…なんですか…」

「みょうじっておっちょこちょいだよね」

「はい?」



一瞬、思考が停止する。おっちょこちょい…そりゃあ、しっかりしてるとはお世辞にも言えないかもしれないけど、そうかおっちょこちょい…菅原の目にはおっちょこちょいに見えちゃうのかわたし。うーん、なんだか。今日だって朝食を抜いてまで多少の身だしなみを整えたのは菅原のことを意識しているからであって。…いやでも課題の存在ちゃんと思い出したし、許容範囲内でしょう、うん。



「それで課題は終わったの?」

「ん、ばっちり埋めた」

「それ提出来週なのに?」

「…えっ」



一呼吸置いて間抜けな声を上げたわたしに対し、すごく楽しそうな表情の菅原。今日は何だか色んな表情が見られるなあ、とか喜ぶ余裕なんて勿論無くて、わたしはサーっと血の気が引くのを感じながら鞄から力無い手で英語の課題を取り出す。表紙右上に目を遣れば其処には赤い文字で、締め切り厳守、そして来週の日付。
そうかわたし、焦った勢いで何の確認もせず真っ白い課題冊子開いて…。
ゴン。わたしの額と机がこっつんこした鈍い音が響いた。だって、突っ伏すしかない。もう色々狂ってる。わたしは何のためにあんな闘いを繰り広げたのだ。



「はは、でも良かったじゃん課題終わって、オレまだ半分」

「…計画的」



そう呟いた直後、教室の外から「スガさーん!!」という元気な声が聞こえてきた。きっと後輩くんだ。菅原も「おー」とか何とか行って席を立つ。ああ、菅原行っちゃう。わたし今日醜態晒しただけだ消えたい。



「それとねみょうじ、」



あ、と思い出した様に菅原が立ち止まる。その声にわたしものろのろと少しだけ顔を上げると、ぽん、と頭の後ろに柔らかい衝撃。



「ここ、髪ちょっとはねてる」



少しだけ声のトーンを落として、菅原は言った。…そういえば、焦って正面しか鏡では確認しなかった気が。ということは、菅原が指摘したハネとは、つまり寝癖か。



「…」



やばいしにたい。最低限の身だしなみさえもドジったと。何なの今日わたし厄日なの。「うーっ」と小さく唸りながら後頭部のハネを自らの手で押さえ再び机に突っ伏す。ああもうほんとだ、ちょんちょんしてるよコイツ。



「…まあオレはそういうみょうじいいと思うけどね」



ふと、菅原の優しい声がふわりと降ってきて、でもこんな頭してると知ったらもう顔を上げる気にはなれなくて、そのままの体勢で「何か色々すみません」と居たたまれない気持ちを吐き出した。すると僅かな沈黙を挟んで今度は溜め息が降ってきて、流石に迷惑が過ぎたかと心に暗いものが広がるが、すぐにそれを打ち消す様に頭に優しい重みが降りた。



「今の、お世辞とか慰めとかじゃなかったんだけどなあ」

「…へ」



思わず顔を少しだけ上げて菅原を見上げると、わたしの頭に右手を乗っけたまま、口を尖らせていた。何が起きているのか理解出来ずそのまま身体を硬直させていると、菅原は少し照れた様にはにかんで、その右手でわたしの頭を軽くぽんぽんと叩いた。それから菅原は教室の外へと出て行く。ああ、そういえば後輩くんに呼ばれてたんだっけ。
…というか、え、今。



「…」



ゴン。再びわたしは机に突っ伏した。今世紀最大級に心臓は音をたてていて、頬に集まった熱は暫く引きそうにない。寝癖、直しに行かなきゃなのに。
ああもう、菅原まだ戻って来ないで。



* * *
2014.03.12