宇宙みかん
宇宙に憧れるハーツラビュルの同級生
また、今日も目が覚めて右を向くと歪んだクローゼットの向こうにカーテンが閉められたベッドがある。いつもは一番目覚めが悪く起きるのも最後だが今日ばかりは一番乗りだった。身体を起こすために腕に力を込めると、ベッドを軋ませる重力にうんざりしてため息を付いた。
顔を洗うために部屋を出ると、騒がしい寮内は人の気配が感じないほどに静かだった。洗面所へ向かう午前4時、日の出には一時間あまりを残している。暗い廊下に響くスリッパの音を数えながら歩いた。デジャヴを抱えたまま歯磨きを済ませて顔を洗う。鏡に映る廊下は相変わらず原色が目に刺さった。
誰も居ない鏡の間。ぼくは水面のように揺らめく鏡をくぐった。なんとなく、海が見たい、そう思ったら目的の場所まで一直線。自分が寮を出ていたことにはオクタヴィネル寮への鏡をくぐった後に気づいた。
モストロ・ラウンジの従業員入り口へ足を向けると厨房にはすでに誰かいるようで、明かりが灯っていた。今日の仕込みをしているのだろう。他寮の自分が仕込みを行うことはまずないが、イソギンチャクを頭にはやしている場合はその限りではないことは実体験として学んでいる。後日イソギンチャクを解消するための契約をしたあの日の自分もきっとおかしくなっていたに違いない。あの日も今日のように、どうしようもなく宇宙に行きたいと願った時だった。
「あ?ハーツラビュルの雑魚がなんで朝早くにいんの」
今日の仕込みはフロイド・リーチだったらしい。眠たげな眼差しに剣呑さを孕ませてぼくを射抜いた。弁明しておくと、今日のぼくは大層頭がおかしくなっており物事を正常に判断できる状態ではなかった。
「海を見たくなったから、ラウンジの水槽を見たいのだが……」
「はぁ?開店時間じゃねーの見てわかんねーワケ?」
「なら、仕込みを手伝うから見せてくれ」
「絶対ヤダ。はやく出てけよ」
当たり前だが、先程弁明したとおりぼくはイカれた思考でフロイド・リーチと会話していたので釣れない返事もなんのその。流石に衛生面を考える余裕はあったので入り口で呆然と彼の手際の良い作業を眺めることにした。うざったそうな目を向けられたが口を開くほうが面倒だと思ったようで何も言わなくなった。異様に静かな空間にリーチが下処理を施されてきれいになった野菜が積まれていく。シンクの上に落ちていく食べられない部分でさえも重力には抗えないのだと頭の隅で考えた。
「海は、宇宙と似ているか?」
「いきなりなに?気持ち悪ぃんだけど」
「だってきみ、人魚だろう。海は、死骸やプランクトンが浮いていて、冷たく海水が揺蕩い、浮力で身体は軽い。あぁ、それはまるで」
「宇宙とソックリってこと?」
「そのとおり」
魔法が発達したこの世界に魔法工学なる学問があるが、ちっぽけなぼくにはあまりに最先端過ぎて理解することができない。イグニハイドに友人もいないし、そもそも魔法があるのだからと一蹴りされる話は、あまりに不毛で、でも未知の世界に夢を見ずにはいられなかった。
「雑魚ちゃんさぁ、海って全然宇宙と似てねーから。陸とほとんど同じ。ヒトみたいな生き物が一番上にあるヒエラルキーと、どっかで聞いたことある神話が溢れてるし、重けりゃ身体も沈むよ。それに鰓呼吸だから陸にいるより本能的に酸素吸ってるし」
「いいじゃないか、夢くらい見ても。あぁ、でもため息で溢れてないのは羨ましいよ」
「わかってねーなぁ、ため息は海水に溶けてんの。むしろ泡になって口からガボガボ出てくるよ。でも、オレ、陸と同じだけど、でも」
「海が恋しいなって思うよ」
海が恋しいと告げたリーチの横顔はなんともノスタルジックに満ちていた。ぼくが、宇宙に行ったら、無重力に飽きてきた頃にこんな顔をするのかもしれない。そう思うとなぜだか無性に寂しさを抱え始めた心に呼応して視界がゆがむ。宇宙ハボキでスペースデブリを掃いて掃除してみたいと思っていたことも、無重力を当たり前のように受け入れて暮らすことも、どんな星に住んでみたいかと悩むことも、壮大だと思っていたこと一つ一つがちっぽけに思えてしょうがなかった。
「えっ、なんで泣いてんの」
俯けていた顔を上げるといつの間にかリーチが目の前に来ていて、ぼくの寝癖を見下す太陽みたいに見下ろしていた。ぼくの170cmを優に超す眼前の男を見上げると、伝う涙を体躯に見合った太い指ですくった。すくわれてそのままころりと固形になったソレを口へ放り込んだリーチは無表情のまま、足元に散らばるそれを拾い集めた。大小様々な破片が大きな手のほうきでかき集められて、そのまま踵を返して水で洗った。
「オレ、雑魚ちゃんみてーに宇宙に行きたいとか全然思わねーけどぉ、雑魚ちゃんのデブリをかき集めて綺麗にしてーなって思うよ。今は」
「ぼくは、そんな大層な人間じゃないさ」
水で濡れたソレは輝いており、リーチは器用に魔法で乾かして見せる。無色透明に金がちらばったそれをぼくの口に入れると、じんわりとみかんの味がする。
「宇宙みかん味……」
「えー?雑魚ちゃんのはそんな味なの?オレのは甘くてしょっぱくて、パチパチしてたよ」
「ならそれは、リーチの海へ向けた感情なんだろうな」
「雑魚ちゃんはみかん味の感情を宇宙に向けてるわけね」
「ああそうさ。しかもただのみかんじゃなくて宇宙みかんさ」
「うわ〜!すげえーこれ肉の味!どうせ宇宙肉って言うんでしょ?」
さっきまでの不機嫌さが嘘みたいに笑うリーチを見る。大きな口に一つずつ入る、彼がデブリと称した感情の破片はついに一つになった。面白そうにその口は何味だろうね、と笑う。最後の一つを口に入れると、腰を抱き寄せられて、そのまま空いた口に舌とソレが押し込められる。色気もなくただ、二人で一つの感情を共有した。
「すげぇしょっぱいし苦い。不味すぎ。でもこれ何かわかっちゃったぁ」
「リーチは本当に読めないな……。残念だけど、ぼくもわかったよ」
「なぁんだつまんねぇの。雑魚、いや、でもなぁ」
「なんだ、あだ名つけてくれるのか?」
悩ましげに端正な顔を歪ませて顎に手をやる男を見る。その反対の手はぼくの頬に鎮座しており、閉じた目を瞼の上からなぞっている。
「雑魚ちゃん、マリンスノーって知ってる?」
「あぁ、あれだろ、スペースデブリの海バージョン」
「アレは人工物でしょ。マリンスノーはプランクトンとかの死骸が見えるやつ。人間って面白いよねぇ。アレを雪にたとえられんだから」
「あれマリンスノーっていう名前があるのか」
両手で上向かせて、一対の色の違う瞳と目が合う。照明を背負った彼は逆光で薄暗く瞳と耳に揺れるピアスが光るばかりだった。
「マリンスノーともちょっと違うんだよねぇ……。やっぱ雑魚が一番かな」
「今までの流れがないと酷く傷つく一言だぞ、リーチ」
「名前で呼んでよクラスメイトの雑魚ちゃん」
「何だ、気づいてたのか、フロイド」
んふ、と鼻から抜けるような笑い声とともに抱き寄せられて寝癖頭をかき混ぜられる。鳥肌が立つほど冷たく設定された室温では人魚の体温は温かく、暖を求めてすり寄った。頭の後ろの方で「おやすみ」と聞こえるとそのまま瞼が落ちる。これを夢だと思うにはあまりに印象深すぎる出来事だった。
次に目覚めた時、フロイドの腕の中で知らないベッドに横たわり昼を過ぎた事実は、確かに現実だったと確信するための材料にしかなりえず、これからも、少なくとも2年はこの陸での生活が続くのだとどこか遠いところで感じながら、人生初の無断欠席を思い出して憂鬱になった。
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