転生林檎
「なあ、これやるよ」
「はあ?いきなり、え?」
テーブルの上にある蛍光色のブルーグリーンをまとった林檎を見つめる。たまたまアトリエで隣に座ったやつから押し付けられた林檎だ。傍迷惑この上なく、これ以上ないほどに怪しい。しかし、その色を押しのけて感じる甘酸っぱく瑞々しい香りは間違いなく林檎のそれで、朝から空にしていた胃を刺激する。様子を見るに上からペンキなどで塗ったわけではなく、元からこの色の林檎のようだ。まあ、ひと口くらいなら…と小さくかじった。一欠片を咀嚼し飲み込むと、強い睡魔が襲ってくる。怪しむ隙もなくテーブルに突っ伏した。暗転。
「本当に消えちまうんだな、俺」
透ける腕と苦しそうな呼吸に違和感。ルーク、お前髪伸びたか?いつもは刈り上げてツーブロックにしているじゃないか。それに昨日は刈り上げてもらったばっかりだって喜んでいたのに。
「怖い、すごく、怖いんだ......。だって俺、跡形もなくなってしまう。俺が生きていたって証拠は何も残らない。でも、変だよな、心のどこかで安心?してもいるよ」
俺には、ちゃんと生きている意味があったって、実感できるんだ。
変な顔で、流れない涙で顔を濡らすルークに何もできないまま、俺の意識は強い力に引っ張られて空に投げ飛ばされた。泣いている彼を置き去りにしたまま。
ある譜術士になった。文字通り”人間離れ”した頭脳で、人智を超越した理論を組み上げた。軍属の研究者であることを嫌悪したことはない。あの日から、彼自身の目的は唯一つ。完璧な彼の人を作り上げることだけを、盲目的に追い求めた。しかし、ただ一人の友人の説得をきっかけにその研究に封をした。自分の行いの馬鹿馬鹿しさに気づいたからだ。その行いに意味が無いのだと受け入れてしまえば後はもう、掘り起こすものがいないよう緘するだけだった。
ルークと出会ってから実に様々なことが起きた。自らの罪を忘れたことなど一度もない。彼が変わりゆく中で、互いを知りゆくとともに罪が重さを増していくのを感じる。ルークは死についてよく問うてきた。あぁ、これは自らへの罰だ。感情と切り分けられた理性はルークを追い詰める最善手を選ぶ。違う、俺が掴みたかったのは"これ"じゃない。駄目だ、これじゃあ駄目だ、転生しよう。
『軍属の研究者』と言えども、知識量と地頭の良さがずば抜けていなければたどり着くことすらもできなかった。いや、一度だけ彼以外にルークへと近づくチャンスがあったが、俺が転生した人間自身がルークに興味がなかった。そうなると、最初に成った彼以外は影も形もつかめない。あぁ、このアプローチはもう底がついたのかもしれない。別の視点に切り替えよう。
ある音律士になった。始祖ユリア・ジュエの末裔の証であるその譜歌で傷だらけの心に寄り添うことにした。どうしてなのだろう。どれだけこの旋律を重ねてもルークの笑顔はいつも曇っている。外傷は消えても心は一向に癒えてくれやしない。むしろどんどん抉れ、膿んでいくようだ。咄嗟に掴んだ彼の手は透けていた。俺が掴みたかったのはこんな半透明な手じゃない。骨と肉の感触が感じられる質量のある手だ。この方法もうまく行かない、転生しよう。
音律士であれば誰でもいいわけではなく、第七音素譜術士であればいいわけでもない。力には必ず優劣がある。預言士でも駄目だ。力が弱すぎるしこんなものを詠んだところで俺の望む未来は其処には無い。一度導師守護役に転生することができたのだが、彼女の場合立場が複雑すぎて出来ることが少なかった。あぁ、これも手詰まりだ。
ある導師になった。彼の生い立ちも随分変わっていたが、それは横においておく。この時、ルークは初めて心の柔らかい部分を見せてくれたが、何せ自分の身体がままならない。彼が苦しんだように自分の身体が存在が、消えていく。とうとう何かを変える前に自分の体に限界が来てしまった。こんなに間近で泣き顔を見るつもりはなかったのに。
数あるレプリカの中でも、転生した瞬間から動けるかどうかは運だった。初めから生活に支障のないよう刷り込みがある者もいれば、歩くことすらままならない者もいる。歴史なき無教養には下地がなければ事が成せないので博打よりも危ない橋はこれ以上渡るのをやめよう。
ある護衛剣士になった。色々とワケアリのようだが俺には関係ない。なぜならこれまでで最もルークに近いところに立つことができたからだ。これはやっと訪れた”勝ち”かもしれない。これだけ傍にいれば守り切ることができるだろう。なんて淡い期待もいいところだ。ルークの無邪気な笑顔と無垢な心に触れて、お前の意思を無視できなくなった。屋敷にいた頃はわがまま放題だったが、それでも、髪を切ってしまう後よりはマシだった。お前の意思が、心がいつも其処にあったからだ。頼む、いつもみたいに我儘を言ってくれよ。
随分と聞き分けが良くなったルークをみやる。
あぁ、あぁ、また駄目なのか?一体いつまでこの生活が続くんだ。あと何度、俺はお前を見殺しにしたらいいんだ?
「ルーク!」
「うわぁ!?なんだよ?!」
跳ねるように身体が起き上がった。息が上がって身体も汗だく、おまけに手は震えていた。ぼやける視界のなか湿ったタオルが手に触れて、次いで額に冷えた手の感触。「まだ熱あるっぽいな」その声は転生し続けて求めた声で。痛む頭をやっと動かして自分の隣を見た。
「るーく、ルーク…っ」
「お、おい、どうしたんだ?どっか痛いか?やっぱガイに着いてきてもらえば良かったか…?」
「ルーク、左手…」
「左手?左手が痛いのか?」
ルークの困ったような顔が俺を覗き込む。その顔が涙で歪んでよく見えない。ただその手が質量を持って俺に触れていることはわかった。
「いきてる…」
「何いってんだよ、風邪引いたくらいで大げさだなぁ」
けらけらと笑って、ルークの冷たい手がこぼれ落ちて止まらない涙を拭った。ルークは記憶の通りのまま、つややかな赤い髪はツーブロックで白いセーターを身にまとい、左手に2つ右手に一つのシルバーリング、腕にはお気に入りのブレスレット。腹は出ていないしコートも身にまとっておらず何よりその身体は質量がある。一つ一つ記憶と照らし合わせてやっと先ほどまで見ていたのは夢だったのだと安堵できた。
「ルークぅ...うぅ」
「もぉ~泣くなって。大丈夫だからさ」
そう言って抱きしめられる。体温とルークの匂いがふわりと香って馬鹿になった涙腺から涙が泊まる気配はまったくない。喉をひきつらせながら泣く俺をなだめるように、背中へと回ったルークの手はゆっくりと上下に往復する。熱があるといった言葉は嘘じゃないらしい。数十分は経っただろうか、段々と、疲れて目が開けられなくなってきた。肩へ頭をおいて目をつむる。今度はいい夢を見れそうだった。
「全く、こんな変な色の林檎なんか食うからそんなことになるんだからな。でも、ありがとう。俺を見つけてくれて」
2024.01.14
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