カインコンプレックス
『芸能コーナーの途中でしたが、ここで緊急ニュースをお伝えします。今朝午前7時17分ごろに、東京駅構内で傷害事件が発生しました。被害者は、神奈川県在住の19歳男性。犯人はまだ捕まっておらず、警視庁は巡回を強化するなどして犯人の行方を追う方針です。なお、被害者の男性は刃物で腹部を刺され重傷でしたが命に別状はなく、まもなく病院に搬送されました』

 免許を取得した際兄から譲り受けたシルバーのクラウンを飛ばして病院に着いたのは、幸村のお母さんから連絡を受けて元テニス部レギュラーに情報を回し終えた一時間後、午後十時過ぎのことだ。看護師に訊き、五階の一番端にあるその部屋へと駆けつけた時、東京で恋人と同棲している仁王はすでにその場で静かに立ち尽くしていた。白いベッドの上で横になり呼吸器をつけられている幸村を、奴は壁に凭れてじっと見据えている。その横にある椅子には、少し顔色の悪い幸村の母親と妹が座っていた。その隣には父親が立っている。

 部屋の隅には、全身に赤茶色の汚れをべったりと付着させた千代田と、ひどく顔色の悪い女が一人座り込んでいた。

 しばらくして、蓮二が柳生と赤也を連れて到着した。
「丸井とジャッカルは?」
「仕事で抜け出せんとよ。終わったら来るらしいがのう。俺はたまたまオフじゃ」
 すぐそこで行われているはずの蓮二と仁王の会話がとても遠くのやり取りに感じる。俺はただ、真っ青な顔をしてその目を固く閉じている旧友を見つめる他なかった。
「容態は、どうなんですか?」
「ご心配お掛けしてごめんなさいね。手術も成功したし、命に別状は無いようよ。今は麻酔で眠っているだけ」
 幸村のお母さんの少し掠れた声が部屋に響き、少しだけその場の空気は温かみを帯びた。
「全く、神の子は相変わらず無茶するぜよ」
「仁王くん!そんな言い方はないでしょう!」
「でも、ホントよかったっす幸村先輩っ」
 赤也が涙ぐむのを横目に、俺は、何故このような事態に陥ったのかをずっと考えていた。
 ここ数日、幸村が神経を張り詰めていたのは分かる。俺が少々強引な手口で焚き付けた後、奴が千代田妹に会いに行ったことも知っていた。その後何があったのか。飲みに誘って口を割らせようとしたが、アイツはやけに真剣な表情で「この先何が起きても俺はあの子を放さない」と抽象的なことを言うばかりだった。
「キミたちの中で知っている子はいないかな?」
 すると、幸村の父親が俺たちに声を掛けてきた。その言葉の言い回しや雰囲気は幸村にそっくりだが、外見はあまり似ていない。黒髪短髪で中肉中背の四十代前半、どこにでもいそうな父親だ。
「精市がなぜあんな朝早くに東京駅にいたのかが全く分からないんだ。警察から連絡を受けて、初めて精市が寝室からいなくなってることに気が付いてね。しかも事件当時の精市の持ち物が、どうやら旅支度のものだったらしいんだ。小さめのボストンバックに着替えと洗面用具が入っていたらしい」
 警察に没収されてしまったんだけどね、と付け加える。冷静な口調だった。立海の同期たちの視線が一斉に俺へと向く。まぁ、そうだろうな。
「いいえ、特には」
「真田くんも知らない、か」
 彼女たちに訊いても何も答えてくれないんだ。と、部屋の隅で床に座り込む血だらけの千代田とその隣の女を少し困ったように見る彼。ネクタイがよれていた。おそらく急いで出てきたのだろう。俺たちテニス部OBが微妙な空気を感じ取り幸村家とその女の動向を見守っていた。
「どういうことぜよ参謀。あんな朝早くに幸村は東京で千代田に会っとったんか?」
 不二が知ったら大騒ぎぜよと蓮二に耳打ちする仁王。その会話を聞こうと柳生や赤也も蓮二の近くに集まってきた。蓮二は困ったように俺へ視線を寄越す。
「いや、会っていたのはおそらく」
「蓮二、悪いが皆に千代田妹の説明を頼めるか?」
「っ、どうするつもりだ弦一郎」
「千代田に事情を訊いてくる」

 蓮二の無言を了解と取り、俺はその場から千代田姉妹を連れだした。姉の方は声を掛けても反応がないので半ば抱えるようにして部屋から引きずり出すと、妹の方はまるで亡霊のごとき無気力さを醸し出しながら俺たちの後をついてくる。廊下に出て、その突き当りにある階段に固まった血液を全身に付着させている千代田渚を腰掛けさせる。よく見ると、その手もどす黒く乾いた血で塗れていた。
「千代田、着替えないのか?せめてコートを脱いだらどうだ」
 膝を抱えて蹲る千代田。寒いのか。
「代わりにこれを着ろ。あと、手も洗ってきた方がいい」
 自らが着ている黒地のコートを脱いで、知り合ってもうすぐ八年になる旧友の腕を引いて立たせようとした。虚ろな目をした千代田はふらふらとした足取りで立ち上がる。相変わらず華奢で、軽い。
「ゆきむら、死んじゃう」
 か細い声と共に俯いた顔から雫が零れたのは、俺が彼女を連れて洗面所まで歩き出そうとした瞬間だった。
「ゆきむらが、死んじゃ」
「幸村に命の別状は無い。さっきあいつの母親も言っていただろう」
「でも、血が。いっぱいっ」
「千代田、落ち着け」
「っ、どれだけ塞いでも、血が止まらなかったっ。大声で名前呼んだのに、段々反応しなくなってっ!」
「ねえ、さん」
 千代田の声が段々荒くなっていった時、か細く不安定な声がそれを制した。声の出どころは顔色の悪い長身の女。初めて会うがおそらくは千代田楓だ。本当に千代田とは似ても似つかぬ外見をしている。彼女は階段に座り込んだまま視線を上げることなく口を開いた。
「姉さん。どうして、あそこにいたの?」
「っ、バレエの練習に、行く途中の乗り換え、で」
「あんな、早くに?」
「周助のお姉さんの知り合いに、無理言って借りてるの。夕方からは授業があるけど、午前中なら良いよって」
「で、彼の家から、東京駅へ行って乗り換えを?」
 千代田渚は頷いた。
「姉さん、見た?犯人」
「っ、フード被っててよく見えなかった」
「幸村さん、どうして刺されたの?」
「っ」
「ねぇ」
 千代田を言及する妹の口調はけして鋭くはなかった。しかしその得体のしれない不安感を人に抱かせるようなはっきりとしない言葉が、かえって千代田を困惑させている。まだ千代田のその小さな体は小刻みに震えていた。
「どうして刺されたの?どういう風に刺されたの?幸村さんはコンビニのすぐ近くの壁際で私を待っていてくれたのに、どうしてそこから離れたところで刺されてたの?ねぇ、答えてよ。っ、ねえさん」
「っ」
「答え、て」
 千代田渚は、顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。


「よく分からないっ。ただっ、歩いてたら幸村が私の名前を叫ぶ声が、聞こえてっ。振り返ったら、幸村が変な男と揉みあっててっ、慌てて駅員呼ぼうとしたら、幸村、倒れ、てっ」


 庇ったのだと、第三者である俺でさえすぐに分かった。
 そうか。幸村は、千代田渚を。
「わかった」
 まるでその答えを最初から知っていたかのように、千代田の妹はそっと目を閉じて階段を下ろうとしていた。千代田がハッと顔を上げる。
「どこ行くの楓ちゃんっ!」
「っ」
 妹が緩慢な動きで振り返る。俯いていたが、その頬には確かに大粒の涙が伝っていた。
「ごめん、なさいっ」
「えっ?」
 姉が妹の言葉を聞き返す。
「ごめん、ごめん姉さんっ、ごめん」
 涙声が静かに何度もそう繰り返した後、彼女はその顔をそっと上げた。
「私が悪いのっ。深く考えずに無謀なことをした私にすべて責任があるっ。それは分かってる」
 でも、と何かを言いかける彼女。
「っ!」
 涙を流す双眸は、とても実の姉の目を見るような目とは言えなかった。恨み、悲しみ、怒り。すべての負の感情が込められていた。
「私、なんでいつも欲しいものを姉さんに盗られるんだろうっ」

 何一つとして、上手く手に入ったものがないの。


 残酷なその言葉が紡がれたちょうどその時、千代田妹が下ろうとしていた階段を上がってきた千代田夫妻が眉を少々顰めて踊り場に現れた。千代田は俯いてしまい、長い髪が顔を覆ってその表情を見ることはできなかったが。確かに嗚咽は洩れている。
 上手く手に入ったものがない、か。先日どこかで似たような言葉を聞いた。

「楓、お前は母さんと共に家へ戻っていなさい。私の部下を駐車場で待たせている」
 私と渚は少し話をしてから戻る。そう言って高級そうな背広を着こんだその男は、妻と末の娘を駐車場に止めてあるのであろう自動車へと見送った。彼女たちが完全に消えてから彼は階段を静かに上ってくる。
「渚、歩けるか?」
「っ」
「話がある」
 俺がしたように半ば強引に彼女を引きずって歩き出すと、彼は千代田を連れて病室が並ぶ廊下の奥へと消えて行った。
 言い知れぬ不安で爆発寸前まで膨れ上がった、歪な家庭の一幕を垣間見てしまったようだ。嫌な胸騒ぎがしていた。


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -