「ほら、ココア」
「……ありがとうございます」
幸村さんの家は閑散としていた。
あの後思考回路が停止したままの私に、さっさとダウンコートを着せてマフラーを巻いてくれた幸村さん。その代わりに彼はとても寒そうな格好になってしまった。それなのにポケットの中に手を入れるわけでもなく、私の左手をその右手が包んでくれた。大学のカフェテリアでされたような胸が苦しくなる手の繋ぎ方だ。その手は相変わらず熱くて、私は低温火傷してしまいそうだった。
私が彷徨っているという知らせがどうして彼の耳に入ったのか、どうして私の居場所が分かったのか。疑問は尽きなかったが、彼の肩や頭にも雪が少し積もっていることだけは紛れもない真実。この雪の中で、長時間私を探してくれたのだろうか。だとしたら、どうして。
「あの、お家の方は」
幸村さんの家のリビング、そこにある大きな黒いソファーに腰掛けるよう言われた。幸村さんはキッチンでしばらくココアを作っていて、その間にも先ほどスイッチを入れられた暖房のお陰で部屋が温かくなる。私たちが入るまで人気がなかったこの家に疑問を持ったのは、体の震えがだいぶ収まった頃。
「父親と母親はお泊りデート。妹は友達と1泊2日でスキーだってさ」
「……そうですか」
差し出されたピンク色のマグカップ。そこに注がれたココアにはしばらく口をつけず、手を温める湯たんぽ代わりにする。ココアの表面に息を吹きかけながら、陶器越しに伝わる温もりに心地よさを感じていた。そうしていると、幸村さんは自分のココアをローテーブルに置く。そしてソファーの背に掛けてあった青い毛布を、私の肩にそっと掛けてくれた。
毛布ではなくその行為に、体が芯から温まる様な気がした。その時だ。
「あっ」
「え?」
「手が……」
私の右隣に座ろうとしていた彼の視線の先には、私の右の手の甲があった。そこを見ると、青く内出血している。ああ、さっきの。
「誰にやられたの」
「えっ?」
低い声が響いた。視線を上げると、そこには険しい顔をした幸村さんが。
「あの彼氏?」
「あ、いえ。その母親」
「……は?」
「私が、酔っぱらって起きなかったので」
「……なにそれ」
幸村さんが私のことで腹を立ててくれている。その事の方が気にかかりすぎて怪我してることなどどうでもいいと思える私は、やはりどうかしているのだろうか。
すると彼にココアをテーブルに置くよう促されたので言われた通りにすると、彼は私の右手を恭しく取った。
「内出血してる」
そっと撫でられた。先ほどまで体が凍えそうだったのにもかかわらず、今はまるで燃えるようだ。自分の中に燻ぶる下心に驚き、咄嗟に手を引こうとした。しかし手首を強く掴まれて、逃れることができない。
動悸が、早い。
「……ドキドキしてる?」
視線を逸らすことしかできなかった。掴まれた手首のせいで、動悸に、下心に気付かれている。もう一度強く手を引いたが、取り返すことはできなかった。それどころかお仕置きとばかりに、傷ついた手の甲へ口づけを落とされる。
「い、や……」
「どうして?」
「いや、いやだっ」
「ねぇ、楓」
「家に、帰る。帰してっ」
「帰りたくなくて飛び出したんでしょ?」
「や、だ、やだっ……帰りたいっ」
「ねぇ、帰したくないって言ったら軽蔑する?」
どうして、幸村さんは悲しそうな目をしているの。
こんな私のことなど放っておいてくれたらいいのに。どうしていつも構うの。私は、わたしは。
「帰ってどうするの」
「……」
「また彼氏と会って、その母親に酷いことされるの?」
「普段は、こんな」
「じゃあさっき言ってた『さびしい』は、なに?」
俺、キミのことをちゃんと知りたい。
そんな悲しい目で、そんな優しい声で、私に接しないでほしかった。
頭が混乱する。今まで隠していたことが溢れだしていく。
ダメだ。それは、だめだ。
無口なのは口下手だからじゃない。ただ、思っていることをそのまま口に出せば確実に嫌われるほど、本性が卑しくて鬱陶しいだけだ。だから、嫌われたくないから、言う前に考えるのだ。これを言えば困らせる。あれを言えば悲しませる。
そうしている内に、何も言えなくなった。
大好きであればあるほど、その人たちに何も本音を言えなくなった。
「卑しくても、鬱陶しくてもいいんだよ」
「いやだっ……」
「大丈夫だよ、俺も卑しくて鬱陶しいから。おそろいなら怖くないだろう?」
嘘だ。幸村さんは優しくて、誠実で、努力家で。ずっとずっと私の憧れだった。貴方に愛される姉が羨ましかった。姉になりたかった。千代田渚になれば愛される。みんなに愛されるわけではないけれど、私が大好きな人たちには愛される。
だから私は千代田渚の代わりになった。彼女に向かう予定だった愛を、横取りして生き延びようとした。
でも私は楓で、渚じゃないから。母さんを救うことばできなかった。どんなに頑張っても母さんは私を、代用品だと認めてくれなかった。受け入れてくれなかった。
だから戻らなければ。その出来そこないでも受け入れてくれる、彼のところへ。
「……彼は、キミのことを出来そこないと。それでも受け入れると、そんなことを言ったの?」
「……」
いいや。そうだったらいいなと、勝手に妄想していただけ。
その都合のいい幻想も、さっき車内で霧散した。私のことを必要と言ってくれる、愛してると言ってくれる彼のため、子供を産むのが私の存在価値だと思っていた。それでどれだけ彼の人生に貢献できるかは分からないけれど、それでも。
もう、私には彼しか逃げる場所がなかったのに。
化粧は涙で流れ落ち、ドレスはもう皺だらけになっていた。毛布越しに伝わる彼の温もりが、どうしようもなく優しくて。いつの間にか私は幸村さんの大きな腕で抱き締められていた。私のただ無言で聞き頷いている彼は、ひどく子供にも見えたし、とても大人びても見えた。
「もっといっぱい、キミが思っていることを聞かせて」
幸村さんは私の背に回した腕を肩へと持っていき、私の両肩をしっかりと掴んで私の顔を見つめた。彼は少し悲しげな笑みを浮かべている。
「どんな些細な事でもいい。キミが考えていることを知りたい」
少し迷って、私は首を縦に振った。幸村さんはただ静かに「ありがとう」と言って、私の額に唇を一瞬だけくっ付けた。子供扱いされているようで、少しだけ照れくさい。
何から言おう。いざ思ったことを言えと言われるとなかなか上手くいかない。私の話を聞きたいという彼を待たせるのも悪いので、とりあえず私が今思ったことを話そうと思った。
「貴方と出逢えて良かった」
私の一言に、彼は一瞬目を見開いた。
「本当はずっとずっと、貴方のことを近くで見ていたかった」
綺麗な、大好きな顔が、近い。
「笑ってほしくて、喜んでほしくて」
「……うん」
彼は頷いて、ほんの少し顔を赤らめる。
「そんな貴方を少しでも見られて、私は本当に、嬉しかったから」
私は、彼の手に指を絡ませ祈るように握りこんだ。
「見返りばかりを求める、意地汚い生き方しかできないけれど」
幸村さんが、目を閉じて私の額に自分のそれをくっつける。
「貴方だけ、幸村さんのことだけが……私にとって唯一無二の」
「求めてよ」
「……えっ?」
彼の顔がわずかに動く。
唇を、啄むように奪われた。
「求めてよ。俺の気持ちを、体を」
「……なにを」
「全部奪って」
「……」
「貰ってよ……じゃないと、楓から貰う余裕ももう無いみたいだ」
長いまつ毛が震え、少し乾燥した唇が薄く開いて誘っている。
私は導かれるがまま、彼の両頬を自分の手で弱く挟み、そっとキスをした。
一瞬のことだ。
やっぱり熱くて、カサついていて、少しだけ苦かった。
「わ、私も……もう無理……」
飽和状態なのは私も同じだ。溢れて、抱えきれなくて、もう限界だった。
「しょうがないなぁ」
額に、頬に、瞼に、鼻先に、そして唇に。あやすようなキスが私の顔に何度も何度も落ちてきて、私はどうすればいいのか分からなかった。嬉しい、悲しい。涙は溢れるばかりだった。
大好きだ。
貴方のことが本当に、大好きだ。
記憶にある限りでは、声を上げて泣くのは初めての経験。だから止め方がわからない。思った以上に多くの涙を流せる自分に、私は困惑しっぱなしだった。けれど彼があまりにも優しかったものだから、そのような惑いも忘れて最後には、彼の体に縋りつき年甲斐もなくただただ泣き喚いた。
幸村さんはそんな無様極まりない私をずっと抱き締めて、時折髪を撫でたりキスをし続けてくれた。