代用品
 バレエを辞め、演劇に打ち込むようになった。私にはこちらの方が性に合っていたようで、日に日に実力が身につくのが分かった。一年生の雑用時代は辛かったが、三年には主役をやらせてもらえたし、部長にもなれた。なにより、楽しかった。
 彼がロシアから帰ってきたのは、私が高校三年生になった春だった。
 とっくに切れたと思っていた関係は簡単に再開した。私は女子校で男と関わる機会など皆無だったし、彼は帰ってきたばかりだったので日本に知り合いの女がいなかった。
 久々に無我夢中で求められる感覚は快かった。この人には私が必要なんだろうなという、優越感に似た喜び。やはり私を愛してくれるのはこの人だけなんだろうと思った。
「キミが大学を卒業したら、結婚してくれないか」
 そうプロポーズされたのは、たしか十八歳の誕生日だったと記憶している。言葉だけの何の拘束力もない約束だったが、私は確かに満たされた。夢が叶うと思ったからだ。
 小さな頃から将来の夢は変わっていない。幸せな花嫁さん、ただそれだけを望んでいた。

 彼のお母様、新宿バレエ・シアターの団長に呼び出されたのはそのすぐ後のことだ。
「まあまあ楓さん、よくいらしたわね。待ってたわ。貴方のことはよく覚えていましたよ。渚さんの存在に隠れてはいましたが、貴方もとても素晴らしい逸材だった。バレエを辞めてしまわれたことだけが残念ですわ。けれど貴方もあの舞さんの娘さんですものね、きっとその身にも舞さんや渚さんと同じ才能が眠っている。でも、貴方が聡明な方で本当によかったわ。渚さん、彼女は駄目ね。才能は突出していたけれど頭の方が空っぽだわ。例え夢を諦めたとしても、舞さんみたいにその夢を子供に託すという選択肢だってあったはずなのに、うちの息子ではなくどこの馬の骨とも知れない男と。ああ、深い意味はないのよ? ただ、優秀な者同士が掛け合わされば、より優秀な子供が生まれる。この新宿バレエ・シアターの歴代の団長がそれを証明しているわ。だから、貴方にはとても感謝しているの。古典的なやり方だと周囲には笑われるかもしれないけれど、一時的な感情に身を任せて結婚なんてするより、明確な目的を持った方がきっと夫婦は上手くいくのよ。ああそれと、若い人にこんなことを言うのは酷かもしれないけれど、今の内にこれだけは言わせてもらうわね。あの子と結婚したら、できるだけ早く子供を産みなさい? 若いうちに産んでおいたほうが何かと」


 つまりはそういうことだった。


「んっ」
 目を覚ますと、そこはパーティー会場のレストランではなく車の中だった。嫌な長い夢を見た。
 上体を起こすことなく薄目を開けて、揺れる車内の中で私は前方をぼんやりと見つめていた。後部座席で横になっている私の体には、パーティー用に買ったラビットファーのボレロがかかっている。
「ほんとに、呆れて物が言えませんよ。パーティーの最中に酔いつぶれるなんて」
「母さん、彼女が起きちゃう」
 運転をしているのは彼の母親だ。彼は助手席に乗り、少しシートを倒している。車内には酒の匂いが充満していた。
「起きやしませんよ、私が叩いても抓っても起きなかったのですから」
「そんな酷いことしたのかい!?」
「貴方が情けないからですよ。未来の嫁の手綱ぐらいちゃんと引いておきなさい」
 そういえば右の手の甲が痛い。少しだけ腕を動かしてみると、そこは少し赤くなっていた。
「はぁ。バレエの才能ゼロ、体型もバレエ向きじゃない、可愛げもなければ礼儀もない。よくもまぁこんな」
「母さんが言ったんだろ、渚がダメなら楓に近づけって」

 この人たちは、私のことを『渚の代用品』として見ているのだろうと、ずっと思っていた。
 歪んでいると人々は言うだろう。それでも私は嬉しかった。

 実の母には代用品としてすら見てもらえなかった。果たせなかった願望を満たしてくれる、そんな存在だと思っていたのに。

「やっぱり、他の子に変えた方がいいのかしらねぇ」
「いまさら!? もういい加減にしてよ」

 やっぱり、私はこの人たちにとっても、渚以下の存在なのか。

「でも、千代田さんとは縁者になっておきたいのよね。そうすれば寄付金も弾んでくださるでしょうし」
「母さん、いつもそればかりだな」
「おだまりなさい! バレエ団の運営にはお金が必要不可欠なんです! ただでさえ最近は厳しいと言うのに、貴方はもう少し跡取りとしての自覚を……」

 胸が苦しくて、息ができない。

 どうして、こんなにも悲しい。

 当たり前なのに。私が渚になれないのは、もうとっくの昔に分かっていたのに。

「あ、コンビニ。母さんちょっと寄って」
「えっ?」
「トイレ借りたいんだよ」
 車が停車する。彼が助手席から降り、彼のお母さん車のエンジンを切ってそれに続いた。ピッ、という音が響いて車の鍵が閉まる。少し上体を起こして外を見ると、彼女はレジに並んで温かいお茶を買っていた。
 私は内側から車の鍵を開け、そのまま温かい車内から抜け出した。


 外は雪が降っていた。数日前に部長の病室で見たそれとは比べ物にならないくらいの大雪、ここは都心部かと疑いたくなるほどに地面にも積り始めている。不幸中の幸いか、ここは知っている街並みだ。家から少し離れたところにある繁華街である。どうやら私は家へ送り届けられている最中だったらしい。
 このまま世界から消えてしまったら、誰か私のために嘆いてくれるだろうか。
 代用品としてではない、渚ではなく楓のために、何人の人が私を労わってくれるだろうか。

 自問自答していても始まらない。行き場は無かったが、彼らが返ってくる前にここを去らなければと思った。
 雪道にこのパーティー用のヒールはきつい。ファーのボレロは防寒具としてまったく役に立たず、ストッキングにしか覆われていない足は寒さを通り越して痛い。街行く人は異様な装いの私を不審がって見つめていたが、声をかける者はいなかった。服を買おうにももう10時過ぎ。店はどこも閉まっている。とりあえずここからもう少し進んだところにあるマンガ喫茶で休もうかと思った。
 けれど、ハンドバッグの中に財布が入っていないことに気付く。そこには何の役にも立たない、携帯電話とメイクポーチだけが押し込められていた。


 行くあてもなく雪道を歩く。家に帰る気もないし、どこか行くつもりもなかった。
 雪は降り続けていた。繁華街を抜けて、静かな住宅地を歩いている。もうかれこれ二時間くらい彷徨っているだろうか。鳴り続ける携帯は鬱陶しいので電源を切ってしまった。時刻も居場所も確認できない。

 するとそこで、丁度よさそうな公園を見つけた。滑り台やブランコ、シーソーなどという定番の遊具に混ざり、大人一人が身をかがめてやっと入れるくらいのトンネルみたいなモニュメントがあった。あそこの中でなら少なくとも雪はしのげる。公園の中心に一本立つ外灯の明かりを頼りに、私はそれに近寄った。もう足に感覚はない。
 そしてそこに身を屈めて入る際、不快な布の裂ける音が響いた。どうやらバックでストッキングを引っかけてしまったらしい。とうとうむき出しになった素足に、何故だか無性に笑いが込み上げてきた。
「ふふっ、あははっ」
 声を出して笑いだすと、それはもう止められない。
 このまま消えても、誰も特には困らないのだろう。誰にも憎まれてはいないが、誰からも必要とされてはいないのだから。どうでもいい存在。いてもいなくても同じ。
 子供の理屈だと笑えばいい。ああ、そうだろう。世の中にはどうでもいい存在で溢れている。それでも毎日ただ生きていくことに耐えるのが大人だ。そんなことは分かっている、けれど。


「さびしい」

 本音は、涙と共に零れた。
 どうでもいい存在として生き続けて十九年。渚の身代わりとして、渚へ向かうはずだった愛情をほんの少しでもと奪い、自分を慰める。その虚しいハイエナ行為にも限界が来ていた。私の存在価値は渚であって、楓ではない。そんな当たり前のことが、苦しい。
 こんな異常な事を、当たり前だと思わなければ生きていけない自分が、辛い。


 生まれ変わったら、感情表現が得意で口が達者で馬鹿で、バレエが得意な女の子になりたい。
 花のように笑う、優しくて絵が趣味でテニスが得意な男の子と、恋をしたいんだ。



「このバカ女!!」
「ひっ!?」


 冷え切った肩を物凄い強さで引き寄せられたのは、目を閉じた直後だった。

「キミ頭おかしいんじゃないのか!? こんな夜にそんな格好で、死にたいのか!!」
「え、えっ?」
 肩で息をし、大量の白い息を口から吐き出しているのは。
「……なんで」
「話はあと! 泣くのもあと! いくらでも聞いてやるから、とりあえずこれ着ろバカ!」
 慌てた様子でその温かそうなダウンコートを脱ぎだすのは、私のたった一人のロミオ。

 生まれ変わったら恋をしたい、テニスが得意な男の子だった。


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