灯せなかった光
 私がモスクワにある名門バレエ学校に留学したのは、中学三年の春からだった。もともとそのバレエ学校の留学の話は渚に来ていたものだった。彼女はそのことを母やコーチに聞かされる前に、あの事故に遭った。
「楓。貴方はもう14歳だけど、コンクール入賞の経験は一切ないわ。そんな状態で勝ちあがれるほどバレエの世界は甘くない。この1年がラストチャンスだと思いなさい」
 母は私を真っ直ぐ見据えて、真剣にそう言った。
 母の言葉通り、甘くはないのだなと痛感したのは。そのすぐ後だった。

『千代田渚の妹だって』
『え、なにあの下手さ。何しに来たのここへ』
『国へ帰れ、黄色いサル』
 体の骨格からして私たち東洋人とは作りが違う彼女たちを見て、私は自分がどれだけ矮小な存在かを思い知った。
『顔は美人だよな』
『おーい、モデル学校はここじゃねーぞ!』
 教室は違うが、同じ校舎内には男子部もあった。遠巻きで囁かれることはあっても、こうやって冷やかされたことは今までなかったので純粋に驚いた。ここでは本当に、バレエがすべてなのだなと思った。
「げ、来た」
「行こ行こ、同じ日本人だからって一緒にされちゃ嫌だもん」
「親の七光りで姉の七光りとか、最低。私たちがここへ来るのに、どれだけ苦労したか」
 日本人も数人いたが、当然構ってもらえるはずもなく。
『千代田さん。このままでは学校始まって以来の最短、1か月での退学になってしまいますよ』
 挙句の果ては成績不振による退学の警告だった。学校という場所で呼び出されることも怒られることも初めてだった私は、ただただ気が狂ったように練習に励んだ。自主練習室に朝早くから夜遅くまで閉じこもり、入れ替わり立ち替わり入ってくる者たちに馬鹿にされながらも、私は踊り続けた。

 そのうち、『代用品』というあだ名を付けられた。

 そんな日々が二カ月ほど続いた頃だっただろうか。一人の青年が私に声をかけてきた。
「随分嫌々踊ってるんだね、楓ちゃん」
 バレエは楽しくないかい? そう訊いてきた彼こそが、今の恋人である彼だった。同じバレエ団だったが私にとって接点はなく、どちらかと言えば渚の知り合いと言った方が正しい。彼女の相手役もよく務めていた。
 彼は私よりも三つ年上だが、入学したのは私と同時期。つまり同じ学年。
 彼は私を労わってくれた。練習を見てくれて、話をしてくれて、独りきりだった私と食事をとってくれて。
「そんな悲しい理由で、ここに来たのかい?」
 不純な理由で踊り続ける私に、同情してくれた。抱き締めてくれた。
 渚が、その人を兄ちゃんと言って慕っていたことを思い出す。慕うに相応しい、とても懐の深く優しい男性だと思った。その癖無邪気で、変に世間知らずだ。
 それから、正義感も強い。
『この子を馬鹿にしないでくれるかな。彼女は僕の大切な友人だ』
 彼はバレエが上手かった。その学校の男子百名の中でも、おそらく上位十名には入っていたと思う。そんな彼に運よく気に入ってもらえた私は、徐々に表だって罵倒されなくなった。入学して半年が経過していた。

 けれど。

「楓ちゃんにとって、僕は必要?」

 あれは、そう。モスクワに長く辛い冬が到来した頃。

「必要かそうでないかと訊かれれば必要ですが、どうしたのですか?」
「僕ね、楓ちゃんのこと好きだよ」
「あ、ありがとう、ございます?」
「……僕が、キミに全部あげるから」
 私はその時十五歳になったばかりの子供で、世間知らずで、愚か者だった。だからその時初めて、下心のない親切心など所詮は心が弱い者が作りだしたまやかしなのだと思い知らされた。
 誰もいない夜の自主練習室。冷たくて固い床に押し付けられ、私のレオタードとタイツは少しだけ裂けた。
 抵抗はした。だがいつも嫌味な同級生たちから庇ってくれる恩人を殴るわけにもいかず、その間にも彼の手は私の素肌に触れた。意味が分からなかった。私のことが好きなら、どうしてこのようなことをするのかが理解できなかった。
 その当時の私は男性が持ち合わせている本能としての性欲を、うまく把握しきれていなかった。思いが通じ合っていない男女間で、このようなことは成り立たないと信じていた。

「キミのこと好きだから、どうしようもなく大好きだから。空っぽなキミを僕で満たしてあげたいんだ。今は分からなくてもいいよ。僕が、キミを必ず幸せでいっぱいにしてあげるから」

 彼は熱に浮かされたかのように私の名を呼び、私の全身を触り、舐めた。気持ち悪くて吐き気がした。
「ずっと、キミを守る。だからお願い、僕を受け入れて」
 けれどその言葉に、わずかな抵抗さえも許されないと思ってしまった。
 受け入れなければもう守ってはあげないと、そう言われているような気がしたのだ。

 そうして始まった爛れた関係は日を追うにつれ悪化したが、悪い気はしなかった。これで私の身の安全は確約されたし、人から必要とされることに悪い気はしなかった。彼の言葉通り、体を重ねた後はどこか満たされた気持ちにもなった。性交とはこういうものなのかと妙に納得した。好きだと言われるのも心地がいい。私も彼のことを愛しているような錯覚をした。あくまで錯覚だが。
 ただ純粋に、求められるのが嬉しかった。今までにない経験だった。くすぐったくて、甘ったるくて、優越感に浸れて、心地が良い。気分が良い日は私も彼に「好きだ」と言えるくらいにまでは、彼のことを思えるようになった。


 そんな矢先のことだった。
「渚、渚っ。ごめんね、ほんとうにごめんね……」

 千代田渚が主役だった舞台のDVDを見て、母が泣きじゃくっている姿を見た。机に置いてあるのは空になったブランデーの瓶、それから何十枚も積み重ねられたA4のコピー用紙。
 私の手の中には、全てにおいてクラス順位が最下位の、あのゴミみたいな通知表。それと学生事務室からの退学通知書。

 覚えたての快楽にかまけて練習を疎かにした私。待っていたのは容赦ない罰だった。
 母は今まで誤魔化していた自分の感情を、とうとう酒の力で吐き出さざるを得なくなったのだろう。あまりに出来の違う、二人の娘を目の当たりにして。

「渚……」
 私では姉になれない。姉になれないから、一生母の特別にはなれない。
 それが証明された瞬間だった。

 私は、母と二人で住んでいた学校近くのアパルトメントを飛び出した。雪が降りしきる中、その足は必死に彼のところへと駆けていく。彼は学校が建てた寮に住んでいた。寮と言っても、日本の様にうるさい寮母や管理人がいるわけではない。学生同士が肩を寄せ合い暮らしているシェアハウスのようなものだ。
 私はその中に入った。一刻も早く抱いてほしかった。もうこの世に、彼以外私を必要としてくれる人なんていないと思った。もう何でもいいんだ。例え一時の気の迷いみたいな恋でも、ただの性欲処理でも。
 必要としてくれるなら、もうなんだって。

『アイツならいねぇよ。どこぞのメスと違って、寝る間も惜しんで練習してるからな。ちょっとアイツに構ってもらえるからって調子に乗るなよ。努力もしない癖に』

 彼はいなかった。私の行き場は、もうどこにもなかった。


 惨めに家へ帰った私は、泣き疲れて寝ている母を起こさぬようにパスポートと現金を探し出し、必要最低限の荷物をまとめてそのまま家を出た。机の上には成績表と退学通知書、それから『日本に帰ります』のメモだけ置いてきた。
 それから紆余曲折はあったが、結局私は最後には姉に泣き付きバレエを完全に辞めることができた。
 「楓が日本に帰ってきたがってる」
 私を背に庇い姉がそう母に進言すると、母はその瞳に少しだけ影を落として「わかったわ」と言った。
 そして。
「私がもう一度、バレエをやるから」
 千代田渚がそう言った時の母の瞳の輝きを、私は一生忘れないだろう。
 表情こそ驚いた様子だったが、あれは確かに生き返った目をしていた。散々周りから馬鹿にされ、つま先が血だらけになるまで踊り続けた。私がどれだけ頑張っても、灯すことができなかった明かり。渚はこんなにも、簡単に。


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