マーメイド・シャーク/前



 ドルベは海に面した王国の騎士だった。彼の主であり王であるベクターは、その好戦的な性格から、他国に敵が多い。故に、戦争も頻繁に勃発していた。
 彼は海の方へと見廻りに来ていた。敵の攻め込んでくる気配がないことを確認し、ほっと溜め息を吐く。
 兵達は戦が好きというわけでは決してない。自国の平穏の為に、やむなく武器を手にしているのだ。

 ふと岸を見回すと、浜に倒れている人影が見えた。ドルベは咄嗟に、その影に駆け寄った。
 それは、人間の少年だった。年は自分と同年代か、少し下くらい。彼は何も身につけず、全裸の状態で横たわっていた。
 少し前に、この海域で嵐があった。国の人々はそれを人魚の仕業だと噂をしてやまなかった。その前に出ていた漁の船が、その嵐の被害にあったのだ。
 この少年も、もしかすると漂流していて、嵐に巻き込まれたのかもしれない。

 ドルベは呼吸と鼓動を確認する。呼吸は止まっていたが、心臓は弱々しく動いていた。すぐさま応急処置として、人口呼吸と心臓マッサージを施した。

「ごほっ、ごほっ……っ……かはっ……」

 しばらく繰り返していると、何度目かに彼は勢いよく水を吐き、荒く息を吐いた。それを確認し、一息吐いて彼の呼吸を見守る。
 少しして、彼は意識を取り戻したらしく、ぼんやりと眼を開けた。深い、海の色を思わせる碧色の眼をしていた。

「気がついたか」

 彼はしばらくキョロキョロと辺りを見回していたが、ドルベの姿を確認すると、バッと野生の動物のように飛び起きた。

「怪しい者じゃない。私はすぐ近くにある王国の騎士なんだ。君が倒れていたから、介抱しただけだ。君に危害を与えるつもりはない」

 息を荒らげ、眼で威嚇する彼に、自分は敵意を持っていない、と両手を上げてアピールする。それでも彼は威嚇の姿勢を崩さなかった。
 彼を見ていて、ドルベはあることに気がついた。

「もしかして君……喋れないのか」

 ドルベが問いかけると、彼は徐々に何かを堪えるような、悔しそうな顔をした。
 興奮が収まり、寒さを感じたのか彼はぶるりと震えて自分の肩を抱いた。今ここには彼が着れそうなものはない。ドルベは、自分のマントを外して彼の肩からかけた。

「私の住まいへ来るといい。温かい飲み物を用意しよう」

 少年はドルベに対し、害意がないことを判断したのか、大人しく彼のマントを羽織っている。彼の後について、痛みに耐えるようによたよたと歩き出した。
 どこか、怪我をしているのだろうか。見かねたドルベは、ヒョイっと彼を横抱きに抱えた。
 途端に彼は、驚いた様子を見せ、怒ったように顔を赤くしてドルベを睨み付けた。

「はは、少し我慢してくれ。あまりにも君が痛そうに歩くものだから」

 笑いながら弁解すると、彼は何か言いたげな眼をしながらもしおらしくドルベの腕に収まった。

「そうだ……。言い遅れたな、私の名はドルベ。先程も言ったが、この国に仕える騎士だ。……君は?」

 教えれくれるかどうか確証はなかったが、ダメ元で彼の名前を聞いてみる。彼は何かを探しているようだったが、やがてドルベの腕に、指で文字を綴った。

「ナッシュ……と呼べばいいか?」

 問うと、彼はコクリと頷いた。初めて彼とまともにコミュニケーションが取れ、思わずドルベは顔を綻ばせた。

「そうか。よろしく、ナッシュ」



 ナッシュが眼を覚ますと、ぼんやりと知らない天井が目に入った。昨日から、怒濤のように出来事がナッシュの目の前で巡っていった。ゆっくりと頭の記憶を整理する。
 メラグを傷つけられ、カイトに頼み込んで人間にしてもらった。そして、あまりの苦しさに意識が遠のいてーーー
 そこで、はっとナッシュは起き上がった。ここはどこかの、家のようだった。

 昨日ナッシュは陸で倒れていたところを、一人の騎士に助けられた。
 王国の人間であると知ったとき、身体中に駆け巡る憎しみに、身を任せて彼ーー確か、ドルベと名乗ったーーを威嚇した。
 しかし、ナッシュは鮫の牙を抜かれ、魔法の声も無くし、そして、身体中がまだ鈍い痛みを訴えていた。
 上手く動けないところを、あれよあれよという間にドルベに介抱されて連れてこられてしまったのだ。

 だが冷静になって考えてみると、ここまで自分を助けてくれたドルベという騎士はなんとなく、悪い人間ではないような気がした。少なくとも、メラグに危害を加えるような人間ではないだろう。
 実際のところはわからなかったが、ナッシュの勘はそう言っていた。
 それに、彼は王国の騎士だと言っていた。もしかすると、彼に従っておけばメラグに傷を負わせた人間に、その命令を下した国王に見え、一矢報いることができるかもしれない。
 そう思うと、ドルベに従って置くことが得策だと思えた。

 コンコン、と音がした。入るよ、という声が聞こえた後、ガチャリとドアが開き、ドルベが姿を現した。

「眼が覚めたか。昨日は家に着いて、すぐにまた眠ってしまったからお腹が空いているだろう。温かいスープを作ったから、これを飲むといい」

 ドルベが差し出したカップを、両手で受けとる。しばらくそれを見つめ、ナッシュはカップを口に運び、傾けた。

(うまい……)

 身体全体に熱が広がるような心地と、空いていた腹が満たされる満足感を覚えた。
 温かいが熱すぎず、喉を通りやすい温度だったため、ナッシュはスープをすぐに飲み干した。

「おいしかったか?」

 彼の言葉に、ナッシュは満たされた気持ちのまま頷いた。ナッシュのその様子に、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「着替えは……私のものを用意した。少し大きいかも知れないが、君に合いそうなものがこれしかなくて」

 ドルベは普段着のシャツとスラックスをナッシュに差し出した。
 しかし人魚には「服を着る」という習慣がない。カイトも服を着ていたから、ドルベが今着ているような布で身を包むということは知っていたが、いかんせん、勝手がわからない。
 ナッシュが服を受け取ったまま困惑していると、ドルベは一旦彼から服を取って、ナッシュの前にひざまづいた。

「これに、腕を通して。……そう、そうだ。もう片方の腕も、同じように」

 ドルベに言われるまま、ナッシュはシャツの袖に腕を通す。そうすると、彼が前のボタンを付けてくれた。同じように、スラックスを履かせてくれた。
 脚の痛みは消えていたが、なんだか変な感じだ。慣れるのには、少し時間がかかりそうだった。

「そう、よくできたな。……体調は大丈夫か。何か、欲しいものなどはあるかい」

 何か返事をしたいが、声が出ない。ナッシュは喉を抑え、何か言葉を伝える手段はないかと部屋を見回した。
 その様子に、ドルベは何かを察したように立ち上がると、ガサガサと部屋の中を漁り始めた。しばらくして、彼は紙とペンを持ってナッシュの元へ戻ってきた。
 ナッシュはそれを受け取り、文字を書いていく。難しい文字は書けないが、簡単な文章なら書けた。

『助けてくれた事、礼を言う』

「どういたしまして」

『ここはお前の家か?』

「そうだ。……ナッシュは今日歩けそうか?もし良ければ、君の行きたいところへ行こう」

『ああ。では、この国の王に会いたい』

「…………」

 ナッシュの書いた言葉に、ドルベは考え込んだ。
 彼を保護したことは、ベクターに報告する義務がある。しかし、彼を連れていくのは少し憚られた。
 この、口の利けない少年をベクターがどう処置するか、予測がつかなかった。彼はこの国の人間ではないし、もしかすると敵国のスパイだと思われ、殺せと命じられるかもしれない。
 できることなら、ドルベは彼が落ち着き帰れるようになるまで、自分の元で保護したかった。

 しかし、彼が会いたいと言うなら……。何かあれば、自分が弁解しよう。そう考えるに至り、ドルベはナッシュの申し出を承諾した。



 ナッシュはドルベと共に馬に股がり、国王ベクターの居る城に向かった。
 城へ着くと、門番の兵が彼に礼をする。ドルベはそれに応え、奥へ進んで行く。
 馬屋の前で降りてナッシュを馬から降ろし、愛馬を馬屋へ通すと、彼の手を引いて城の中へと入っていった。

 玉座の前にて、ドルベはひざまづいてベクターの謁見を待った。静かな時の中で、ナッシュは自分の鼓動を聞く。
 ドクン……ドクン……と、緊張した心音が響く。城の人、人、人、全部が敵に見えた。メラグを……妹を傷つけた憎い人間達。思考が憎しみに支配されてゆき、ナッシュの息が荒くなる。

「ナッシュ……どうした」

 ナッシュの様子がおかしいことに気付き、ドルベは彼に声を掛けた。昨日、砂浜で見せた興奮した様子と同じだった。
 もう一度声を掛けようとしたその時、ベクターが姿を現した。ドルベは彼に向かい礼をする。

「ドルベよ、顔を上げるがいい。我に報告とは何だ?」

「はい。昨日、海岸でこの少年を保護したのでその報告に参りました」

「ほう……」

 ベクターは品定めをするようにナッシュを見た。その視線に、ナッシュの興奮状態は更に酷くなっていく。

 こいつが、メラグを傷つけた。こいつのせいで、メラグはーーー!!!

 気づけば、ナッシュは矢のようにベクターの方へ向かっていた。ドルベが彼の名を呼ぶが、彼には届かない。
 彼の右手がベクターを殴ろうと振りかぶったその時、二人の兵に両方から捕らわれた。

(放せ!畜生、放せぇっ!!)

 ナッシュは声にならない声で叫び、息を荒く吐いて、拘束を解こうと暴れた。
 その内、腕を後ろで戒められ、床に頭を押さえつけられた。ベクターの前に、身体を屈するような形になる。ナッシュはキッとベクターを睨んだ。
 胸の内の悔しさ、憎しみを吐いてベクターを罵倒したくとも、渾身の呪詛を吐きたくても、それを乗せる声がない。
 しかし、視線にそれらを乗せ、ベクターを力の限り睨み付けた。

「ナッシュ……!」

 ドルベはナッシュの行動に青ざめた。彼は自ら命を投げ打ったのも同然だった。
 自分がどれだけ弁解しようとも、彼の今の行動は弁護できなかった。彼はベクターに危害を加えるつもりだったのだ。
 もし……もし、ベクターがナッシュを殺せと鶴の一声を発せば、彼は即座に処刑だ。ドルベは祈ることしかできなかった。

「クッ……ハハ、フハハハハ!こいつは傑作だ!」

 ベクターの笑い声が広間に響く。こういう時、王は大抵良からぬことを考えている。ベクターの豪快な笑い声とは裏腹に、周囲は凍りついた。

「ドルベ」

「はっ!」

「随分と威勢のいい奴を連れてきたな。気に入ったぞ。こいつは我が囲ってやろう」

 ベクターは驚くほど上機嫌に言い放った。
 一先ず殺されずに済んだと、ドルベは冷や汗をかきながらほう、と溜め息を吐いた。

「こいつを奥の部屋へ連れていけ。ドルベ。お前は我の部屋へ来い」

 ベクターはそれだけ言って玉座を離れた。ナッシュは、引き摺られるように奥へと連れていかれた。
 ドルベは玉座の方へ頭を下げながら、彼の無事を祈った。

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