9.幸せの、選択を
今日もこの国の空は晴れていた。日差しが眩しく海を照らす。メラグは城の裏にある小高い丘にいた。水平線の向こうを見ながら、静かに祈りを捧げる。祖国へ帰ってから、いつしかそれが日課となっていた。
「メラグ、またここにいたのか」
ナッシュの声が聞こえた。振り向くと、やはり彼がいた。隣にはつい先日、帰ってきたばかりのドルベがいる。彼も祖国へ帰ってくるなりメラグの無事を安堵し、再会を喜びあった。
「すごいな、ナッシュ。君の勘は的中だ」
「勘じゃねぇって言ってるだろ。メラグはいなくなったら大抵ここにいるからわかるんだよ」
「ふふ、考え事をするには、丁度いい場所なのよ」
「考えることは同じというわけか」
「何がだよ」
「君も、よくここに来ていたじゃないか。メラグが居なくなってから。……遠くの海を眺めに」
「ドルベ!」
ドルベはくすくすとナッシュをからかうように言った。ナッシュは顔を赤くしながら、余計なことを言うなと彼の脇を小突く。
「そうだったの」
「ああ。君が居なくなってから、大変だった。本当に、彼は君を大切にしてるんだと改めて思ったよ」
「でもね、ナッシュったらあなたに妬きもちやいて……」
「そうだったのか。私は君達の仲が良すぎてどちらに妬けばいいのかわからなかったよ」
「おい、お前ら二人ともいい加減にしろよ」
ついに機嫌を損ねてしまったナッシュに、メラグとドルベは声を合わせて笑いながら、彼を宥める。
ナッシュもドルベを小突いたり小突かれたりしながら眉間の皺を緩めていき、最後には三人、何がおかしいのかわからないまま笑い合っていた。
しばらくして、ナッシュはふと神妙な顔になってメラグに言った。
「お前も俺と同じか、メラグ」
「何が?」
「ここに来ても、あの国は見えねぇぞ」
そう、あの国は見えない。
水平線の向こうに現れることなど、待てど暮らせどあるわけがないのだ。それほどに、両国の距離は遠い。
「………」
「お前は帰ってきてからずっと、心ここに在らずという感じだった。どこか遠くを見て、物思いに耽っているような……。……俺が気づいていないと思ったか?」
「気になるのか、メラグ。あの、海の向こうが……ベクターのことが」
心配するような顔で、二人はメラグを見た。彼らは不思議に思っているのだろう。ベクターによって疲弊していたメラグが、彼のことを考えているということなど。二人は秘密の部屋のことも、その後のことも知らないのだから。
「……ええ。……彼が私を故郷へ帰した理由が知りたくて……。私、彼に何も教えられずに帰ってきちゃったから」
メラグはもう一度海の方へと眼を遣った。ナッシュは自分も知らないことだったから何も言えずに黙っている。その隣でドルベが、顔を逸らした。
「ベクターが今どうしているのかはわからないが……彼はおそらく、無事ではないだろう」
「え……。それは、……どういうこと?」
「彼の国では今、内戦が始まっている」
メラグはドルベの言ったことが咄嗟に理解出来なかった。彼が言った言葉をそのまま、その口で繰り返す。
「内……戦……?」
「ああ。私もこちらに向かう途中で聞いた話だ。彼の暴政に怒った民衆が、ついに武器を取ったらしい。そしてその混乱を見計らい、彼が侵略した国々も軍隊の準備をしているという」
「ハッ……自業自得じゃねぇか。奴の暴政・侵略は噂には聞いていたが……」
「メラグを国に帰したのは、彼の最後の良心だったのかも知れないな」
ナッシュとドルベが話しているのを、メラグはどこか遠くで聞いていた。
ベクターは知っていたのだ。国で反乱が起きることを。巻き込まないように、メラグを国に帰したのだ。
「メラグがベクターに嫁いでいる以上、この国は彼の国の同盟国となる。要請があれば援軍をこちらから出さねばならないし、近隣国の刃も、同盟国であるこの国に向いただろう」
「だから、奴の良心だったって訳か」
「ああ。メラグの帰郷はタイミングが良かったんだ。君達が内戦に巻き込まれずに済んで、良かった」
「そんな情けをかけるようなやつだったとはな」
メラグは、彼の国の内戦を避けることができた。だからこうして今、ナッシュやドルベと笑い合って過ごしている。
だけど、彼は?
メラグを突き放し、再び一人になった、彼は?
彼は一人のまま、何も信じられないまま、死んでゆくの?
メラグの脳裏には、あの日……ベクターの部屋での出来事が蘇っていた。
あの時はもう、彼は反乱が起きることを感じ取りーーー死ぬつもりだったのかも知れない。その中で、彼はメラグの言葉を、どう受け取ったのだろうか。
メラグはふらりと丘から歩き出した。危ない足取りに見かねたナッシュが、後ろから抱き止める。
「どうしたんだ、いきなり」
「離して、ナッシュ」
「お前、まさかあの国に行くと言い出すんじゃないだろうな?」
「ここからなら、一週間で行けるんでしょう?ーーそうだわ、ドルベ。あなたに頼めば、もっと早く着くわよね?」
「メラグ、正気か!?」
「私は正気よ」
「……お前、自ら……戦争の真っ只中に飛び込むと言っているんだぞ……!しかも、自分を傷つけた奴の所へ、だ」
「メラグ……彼が君にしたことは……彼が今までにしてきたことは、君が一番知っているはずだ。その上で……」
「ええ、そうよ。……だからこそ」
「なあメラグ……眼を覚ませ……!お願いだから、……眼を覚まして、くれ……!」
ナッシュは声を震わせて、すがりつくようにメラグを抱き締める腕に力を込めた。
手離したくないと、守ると誓った存在。それを危険な場所へ送るなど……ましてや、彼女が自ら言い出すなど、ナッシュには考えられなかった。
「ナッシュ」
メラグは振り返って、眉間に皺を寄せて眼を揺らめかせるナッシュの頭を撫でた。
「私は彼にひどいことをされたのは事実よ。……でも、それだけじゃなかったの。私に、新しい絆をくれた。……あなたや私には、国の皆がいて、ドルベみたいな素晴らしい友がいる。……でもね、彼は一人なの。一人でずっと、どうしていいかわからなくて、立ち止まったまま。一人で抱え込んだまま……苦しんでる。私が、行かなきゃ」
「メラグ……君は……ベクターを愛しているのか」
「…………この気持ちを、そう呼ぶなら。彼も、私の大切な人の一人よ。夫婦、だもの……」
メラグの決意を聞き、ドルベは溜め息を吐く。あの時……あの王宮で吐いた感嘆の溜め息と同じものだった。
「ナッシュ……これがメラグの意思だそうだ。眼を見ればわかる。彼女は本気だ」
「ねぇ、ナッシュ……。私もね、あなたの傍にいるのはとても幸せなことだと思うわ。あの夜、私に言ってくれたこと……嬉しかった。幸せだった。……でも、彼を見殺してまでそうするのは……私にとって本当の幸せじゃなくなっちゃう。……ね、私の幸せは、自分の手で決めさせて」
「メラグ……」
いつも寄り添い、同じものを見てきたナッシュとメラグ。しかし今その眼は、同じものを映していなかった。
お互いに寄りかかっていたのではもう前へ進めない所まで来てしまっていたのだった。
「……愛する人を想い、寄り添いたいという思い……メラグは、立派な姫君になったと思う。……そう思わないか、ナッシュ」
「ドルベ」
「その本質は変わらないままだ。ずっと……。あの王宮で会った時も。私が好きだった、君のままだ……それを貫いてくれる相手が自分でないのが悔やまれるが……」
「どさくさに紛れて言ってんじゃねぇよドルベ。……俺だって、わかってる……俺は双子の兄だぞ……」
ナッシュにはもうわかっていたのだ。自分と同じで、言い出したら聞かないことくらい。自分の行かせたくない思いが、メラグを縛り付けていることも。
だが、片割れを失う不安が、どうしようもなくナッシュに襲いかかっていた。一度経験したからこそ。
「ナッシュ……私なら大丈夫よ。私には、海の神がついているわ。それにあなたたちとの絆がある。私はそれを、忘れたことはないわ」
メラグは甘えるようにナッシュの胸に顔を寄せ、ナッシュを安心させるように言った。ナッシュはこの強情な妹に、半ば諦める形で了承をした。
出発は翌日、ドルベがメラグを送る形となった。
出発が決まったその夜、ナッシュの部屋で、三人で晩酌を行った。他愛のない話や思い出話で懐かしさに浸り、そしてナッシュとドルベはメラグとの別れを惜しんだ。
元々あまり酒を飲まないメラグは眠気に負け、始まってからそう時間が経たないうちに、ナッシュの膝を枕にとろとろと眠りに入った。
静かになった席で、ドルベはふと語りかけた。
「君も、そろそろ妹離れをしなければな」
「…………」
「君からしてみれば、まだ君の後ろを付いて回っていた小さい時のままかもしれないが……彼女は立派に、自分で考えられるようになった」
「…………」
「ナッシュ……泣いているのか」
「っ……うるせぇ……」
ドルベがナッシュの方を向くと、彼は片手で眼を覆っていた。兄として、妹を失いたくない心が彼を泣かせている。あるいは、妹を守れない自分を非力と感じているのだろうか。
ドルベはナッシュの肩を抱き寄せ、自分の肩に寄りかからせた。
「メラグを信じてあげよう。それが私達の絆だろう」
「…………情けねぇな、俺……。俺が守ると言って……ただ、踏ん切りがつかなくて……メラグを手離したくないだけなんだ」
「そう思うのは、君の責任感が強いからだ。メラグのことで責任を感じる必要はないんだ。君の思いが海の神に届けば、きっとメラグを守ってくれる」
ドルベはナッシュの肩をポンポンと叩き、励ますように言った。眠っているメラグの目尻からも、すっと一筋涙が零れた。
翌朝、メラグはドルベの天馬でナッシュに見送られながら国を出た。ナッシュもメラグも眼を赤く腫らしていたが、もう泣いてはいなかった。最後に二人はなにも言わず、ただ強い抱擁を交わした。
ナッシュは空を翔る天馬の姿を見守る。胸についた家宝の飾りを握りしめて、メラグの無事を祈りながら。
天馬の行く空は、どこまでも広がる快晴だった。
←戻る
←一覧へ戻る