8.砂の城の王


 大きな扉に入り、少し隔てた所にまた別の扉があった。護衛であろうと、近づけるのはあの大きな扉まで。この一枚隔てた壁がベクターの警戒心と猜疑心を表しているようだった。……そしてこの構造は、あの秘密の部屋に似ていた。
 メラグはゆっくりと奥の扉に手をかけ、開いた。

 初めて入った、王・ベクターの部屋。あの性格から、豪華絢爛とした内装を想像していたが、実際には驚く程に何もなかった。
 壁に模造品等が彼を守るように置かれている以外は寝台と、机だけ。割と倹約に努めている兄のナッシュの部屋の方がまだ生活感がある。

 メラグが部屋の中央に眼をやると、何かを壊した跡、そして同じ場所にベクターが倒れていた。メラグは彼の元へと脚を運ぶ。
 また、暴れて気を失っているのだろうか、ベクターはメラグが近づいても眼を覚まさなかった。しかし手には剣がしっかりと握られている。
 メラグは剣をベクターの手から取り、代わりにその手を握った。……冷たい。少し心配になって口元に手を当てる。呼吸はしていた。 安堵の色を顔に浮かべてフゥ……と息を吐くと、もう一度その手を握り直した。自分の体温をその手に分け与えるように。
 彼が眠っている間、改めて部屋を見回す。壁が傷だらけであった。そのどれもが、ベクターの剣によるものと推測される。その傷は模造品や壁だけでなく、寝台や机……彼が使っていると思われるものにまで及んでいた。

「っん…………」

 小さな声と共に、手がピクリと動いた。―――ベクターが目を覚ます―――メラグは息を呑んで様子を見守る。
 ぼんやりとベクターは眼を開いた。彼は唯眼を開いただけで、それ以外の部分は動かさなかった。

「ベクター様……ここがどこだか、わかる?」

 彼に危害を加える様子はないと察したメラグは声を掛けた。ベクターは虚ろな目をしている。心ここにあらず、という様子だ。メラグは声をかけずに彼の様子を窺った。
 しばらくして、段々と意識が戻ってきたのか、ふいにメラグから顔を逸らした。

「何故ここにお前がいる……。護衛には何人も寄せ付けるなと、言ったはずだ……!」

「私が無理矢理入ったの。護衛のあの方達には罪はないわ」

 メラグはベクターを抱き起こしてやる。彼は疲労で力が入らないようだ。食事等もとっていないのだろう、この生命力のない感じはかつて―――メラグが彼によって監禁されたときに似ている。しかし一つ違うのは、瞳。ベクターの瞳には最早生気の光がなかった。

「お前は何故……ここへ来た?」

「……あなたの顔を、見に来たの。それでは駄目かしら?」

「……どこまでも食えぬ奴だな……。あれだけ俺に何もかも奪われておきながら、まだ俺の元へ来るとは……」

「そうね……。あなたは私から色んなものを、奪ってきた。……でも、奪えないものも、あったのよ。……それは絆。ナッシュ達との……。私はそれがあったから、ここまで来れたの。あなたの虐げにも、屈せずにね」

「フン……。……俺は今、疲労で動けないようだ。何をする気力も、起きない。頭が回らない……俺の気が再び触れる前に、殺すなら殺せ」

「何故……?」

「俺が何も知らないと思っているのか?……お前の身に付けている、短剣と、薬……のことなど、な……」

「っ…………あれは……」

「俺を変える……国を変える………そんなことをお前は豪語しておったようだが……いざというときのその保険があった故に、できたのだろうな。隙あらば、俺を殺せると……」

「違う……!あれは……ドルべとナッシュが持たせてくれた、お守り……。あなたに何も 、する気なんてなかった。あなたなら、向き合えば……心が通じれば、わかってもらえるって、思ったのよ」

「馬鹿馬鹿しい……。俺に心があれば……この国はもっと平和だったと、そう思っているのだろう」

「そうよ。今からでも、遅くはないわ」

「心など、そんなもの疾うに亡くした」

「っ……!だったら、なぜ私を抱き締めたの?私には、あなたに害を与える気なんてなかったけど……!でも、剣を持つ私を抱き締めるなんて……普通ならできないはずよ!」

「フフ…………。お前の心は単純だからな……俺に害意がないことくらいわかっていたさ。そして健気に俺を信じて、何事に対しても耐えていたこともな。自分の努力が報われると信じて……愚かな女だ。見ていて滑稽だったぞ」

 ベクターは乾いた笑みを浮かべてメラグを見る。メラグの眼からは静かに涙が零れた。
 何もかも、ベクターに見透かされていたのだ。その上での、彼の行動だった。自分は、何のために、……今まで、何を信じていたのだろう。

 メラグは懐から剣を取り出した。刃を下にして、震える手でそれを握りしめる。ベクターは動かない。
 ゆっくりとまばたきをすると、ベクターの笑みが眼に入った。生気のない笑みが、生気のない目が、メラグの行動を見守っている。

 メラグは手にした短剣を―――部屋の隅に投げつけた。
 次に、メラグは小瓶を取り蓋を開ける。自らの口にそれを含むと、ベクターを上に向かせ、口移しでそれを流し込んだ。コクリとベクターの喉が動いたのを確認すると、唇を離した。

「これはね、私の祖国に伝わる、海の秘薬と呼ばれるものなの。しばらくすれば、疲労と体力が回復すると思うわ」

「…………俺を殺さないのか?俺が、憎くないのか?」

「憎くない……とは言わないわ。でも……それでも……あなたを信じたい」

「何故……」

「夫婦、だからに決まってるじゃない……!」

 メラグはぽろぽろ零れる涙を拭いながら言った。
 そう、夫婦なのだ。自分とベクターは。何一つ、らしいことなどしたことはないけれど。
 それでも、それこそがメラグがベクターを他人と思えない「理由」だった。

「夫婦……そんなもの、肩書きだけだ。お前の祖国との終戦の為の、上辺のものにすぎない。それはお前もわかっている筈だ」

「あなたはそうかも知れないけど、私はそうは思えない……。この夫婦という肩書きだって……あなたとの絆なの。私、なくしたくない。私、あなたが好きなの……。あなたを助けたい!」

 メラグはベクターの動かない身体を、あの部屋のときと同じように抱き締めた。ベクターは何も言わない。それで良かった。信じて貰えるかわからない。しかし、それでもいい。心の底からの言葉を声に乗せた。

「あなたに……心がないとは思わない。あなたの心は唯傷を負って……凍ってしまっているだけ。今は無理でも……いつかあなたのこと、知りたい。あなたの傷を癒してあげたい……私、ずっと待ってるわ」

 メラグは言い終えた後、ベクターの肩口に顔を乗せ、眼を閉じた。
 そう、いつの間にか自分は彼を好きになっていた。彼の孤独を、傷を、知っていくうちに彼を守りたいと思った。ベクターがどう思っていても構わない。唯、メラグはそう思った。
 再び、涙が零れる。しかし、故郷を想って流すものでも、自分の弱い心に鞭打つ為のものでも、傷つけられて流れる悲しみの涙でも、どれでもなかった。

 今までメラグは自らの正義に則って、彼を……この国を変える―――それを原動力に生きていた。しかし、それは何のためかと問われれば、自分の為だったのだ。
 自分がこの国の惨状を見たくないから。だから変えなきゃいけない。この国を変えなきゃいけないから。だからベクターを変えなきゃいけない。
 全ては自分のエゴから生まれた詭弁……偽善……それでしかなかった。
 だがベクターの傷に触れて、知った。彼も苦しんでいたと。本当は彼だってこんなことをしたくないはずなのだ。……少なくとも、あの……優しい絵を描くベクターは。
 なのに、こうなってしまった。これは彼だけが悪いのでは決してないのだ。歪んだ環境が、こうさせてしまった。猜疑と怖れが、他人から自分を守る心が、彼の心を凍らせたのだ。

 メラグは初めて、ベクターの為だけに涙を流した。


「……メラグ」

 しばらくの沈黙の後、ベクターの声が静かに響いた。メラグはその声で眼を開けた。

「何……?」

 ベクターの片腕が動き、メラグの背中へと、回された。
 少しだけ、疲労が回復したのか……メラグはほっとため息を吐き、彼の言葉の続きを待った。
 一呼吸置いて、ベクターは再び言葉を発した。

「メラグ…………お前を……解放する……」

「え?」

「お前は……ポセイドン王国へ……ナッシュの元へ帰れ……」

 ベクターの言うことが一瞬理解出来ず、メラグは彼から身体を離し、顔を見た。顔には生気が戻っており、真っ直ぐにメラグを見つめている。

「そんな、ちょっと待って……!何故そんなこと、言い出すの?ベクター様……」

「フン……様、など、付けなくていい。お前の口振りに合わない。……頼むメラグ……俺の、気が変わらないうちに、国へ帰ってくれ。……手配は、してある。もうすぐ……迎えが来るだろう」

「既に……ですって?何故なの……ベクター……」

「ここに居ても、お前にとって良いことはない。……何故、か……。強いて言うなら、お前に少しだけ、ほだされてしまったようだな。俺のことは忘れて……故郷で傷を癒せ」

「でも、ベクター!」

「くどい、メラグ!早く出ていけと言っている!」

 ベクターは力の限り、メラグを突き飛ばす。メラグは突然のことに反応出来ず、倒れた。それでも何故、と詰め寄る彼女に、ベクターは傍らに落ちていた剣を拾い、振り上げた。

「っあ…………!」

 メラグは首の後ろに衝撃を感じた。そのまま、意識が閉ざされていく。最後にベクターの名を発しようとしたがそれも叶わず、どさりと彼の足元に倒れた。

 ベクターは無言で、メラグの身体を拾い上げる。大分体力が戻ってきているようだった。そのまま部屋を出て、扉を守っていた護衛兵に命令を下し、メラグを引き渡した。
 護衛兵は初めて見るベクターの静かな表情と命令の内容に反応が遅れたが、直ぐに行動に移った。

 もうすぐ、ポセイドン王国から迎えの船が来るだろう。
 そして……時を同じくして戦禍の足音が近づいて来ていることを、ベクターはその肌で感じ取っていたのだった。

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