マーメイド・シャーク/後



 ナッシュは腕を抑えながら、フラリフラリと海へ向かって歩いていた。貧血と体力の限界で、足元がふらつく。もう間もなく尽きる生命だ。最期はせめて、海で。故郷の海に還りたい。人魚の本能がナッシュを海へと向かわせていた。
 しばらく歩くと、潮の香りと潮騒がナッシュを迎えてくれた。人間になった時、ドルベと出会った砂浜だ。始まりの場所あり、ナッシュが終わりを迎えようとしている場所。波打ち際まで着くと、体力が限界を迎えてドシャッとその場に倒れた。月明かりが身体を照らす。ナッシュはもう動けなかった。死が近いのだと、悟った。
 計算上、まだ一日の猶予はある。しかしナッシュは復讐の為に持てる力全てを使い、生命を削って人魚の本能を呼び覚ましたのだ。死ぬ前に一際輝く星のように。故に、寿命を待たずして身体に限界が来ていた。ナッシュはもう、夜明けまで持たないだろう。

(ざまぁねぇな)

 波の音を聴きながら、自嘲のような笑みを浮かべる。
 あれだけ憎いと思っていた人間に復讐するどころか、自らの血を与えて命を救った。自分の生死をかけていたのにも関わらずだ。しかも、已む無くそうせざるを得なかったのではない。確実に殺せる状況であったが、ナッシュは殺せなかった。人間になったあの時では考えられないことだった。
 しかしナッシュの心は曇ってはおらず、どこか安心すらしていた。人間と人魚が共に生きる未来があるなら、そちらの方がずっといい。その未来の為となるなら、自分の命など安いものだとナッシュは思う。

(皆は、俺が帰ってこないと知ったらどうするんだろう。メラグは……カイトは……)

 カイトはいつも、誰かの意思にとやかく言うことをしなかった。ナッシュの死の真相を知れば「だから貴様は甘い」と言われるかもしれないが。しかしそれでも、ナッシュを批判することも責めることもないだろう。ナッシュが選んだ選択肢だからと、きっとその思いを解ってくれるだろう。
 メラグは悲しむに違いない。泣き顔が、容易に想像できる。生まれてからずっと一緒だった双子の妹。何よりも大切な妹。自分のせいだと責めるかもしれない。彼女を置いて逝くことが心残りだ。しかし、一人なら心配だがカイトや他の人魚達がいる。彼らなら、よく面倒を見てくれるだろう。ナッシュの分まで強く生きろと、メラグを励ましてくれるだろう。
 二人に心の中で感謝と謝罪をしながら、ふともう一人、ドルベの顔が思い浮かんだ。彼は最後までナッシュを諦めなかった。一緒に生きたいと言ってくれた。ナッシュがあの決断ができたのは、彼のおかげだ。

(俺も、お前と一緒に生きたかった)

 自分がいない未来に思いを馳せる。ナッシュが死んでも彼がいれば、もう海を傷つけることなく海や人魚達と共に生きるように人間を導いてくれるはずだ。そう思えば、何も心配はない。 ナッシュは濁ってゆく碧い瞳を閉じようとしていた。

「ナッシュ……ナッシュ!」

 ふと、朦朧とする意識の中に声が響いた。聞き慣れたそれは先ほどまで思い描いていた人物のものだと解る。ドルベ、と心の中で呟くと力の入らない身体がゆっくりと起こされた。

「大丈夫か、しっかりしてくれ!」

 切羽詰まった声が聞こえ、ぼんやりとした視界に歪んだ顔が映る。悲しんで、くれているのか。泣いて、くれているのか。ナッシュはゆっくりと首を振り、震える手を上げて彼の頬をなぞった。

(俺は後悔していない。今までありがとう……後のこと、頼んだ。海と…人魚達と共に生きてくれ。できればお前の名前を一度呼んでやりたかったな…。好きだ、ドルベ)

 心の声はどこまで伝わっただろうか。喋ることも何か書くこともできないから、眼を見て伝える。嗚咽を堪えているのだろうか、ドルベは口元を手で覆うと、頬に添えた手をぎゅっと握った。彼の顔が近づき、静かに唇が重ねられる。最期になるだろうその口付けを、ナッシュも眼を閉じて受けた。
 すると、舌でそっと唇を開かされた。ナッシュの舌に彼の舌が乗り、ころりころりと数粒の丸いものが口内へ転がる。
 ナッシュはハッと眼を見開いた。この粒には、覚えがある。もう必要ないと、部屋に置いてきたものだ。まさか、ドルベは。

「君は帰るんだ。待ってる人がいる」

 唇が離されて見た彼の顔は悲しんでなどいなかった。むしろ、いつも向けてくれていた優しい微笑みで、ナッシュを包んでくれていた。
 身体に力が入らず、止めることも行動を起こすこともできないまま、ナッシュはただ剣を抜いた彼の行動の行方を見守ることしかできなかった。

(お前…最初からこのつもりで……)

 ナッシュの視界に映る景色は海の青ではなく、一面の赤色の空だった。呆然と、その赤を眼に映す。
 ドルベは、剣を抜くと自らの腹に突き立てたのだ。多量の血が噴き出し、ナッシュの顔や身体に飛び散った。
 彼は自害をする為にそうしたのではない。ナッシュがよく解っていることだった。ナッシュの口の中にある薬は、人間の血でないと飲めないものであることを。

(馬鹿野郎…!俺なんかの、為に…。お前こそ、やることがあるんだろうが……!)

 何も考えられずにその赤く凄惨な光景を見た後、怒り、悲しみ、悔しさが渦巻き、身体が震えた。ナッシュは唇を噛み締めて震えを堪える。
 運命とはかくも残酷なものだ。望んでいたはずのものなのに、ナッシュが切望したものだったのに、与えられたのは全くもって望まざるものだったのだから。

「私の血を…飲んでくれ…ナッシュ…。君は……生きて、海に…帰るんだ……。そして…私の、ことを…時々で…いいから……思い出してくれたら…それでいい……そうすれば…私は君の中で…生きていられるから……」

 血を吐きながら、彼は息も絶え絶えにナッシュに語りかける。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、彼は嬉しそうに微笑んでいた。
 彼の生命を引き換えに生き延びるなど…。ナッシュは戸惑い、開いた目尻に涙を浮かべた。その様子にまた彼から、ナッシュ、と声が掛けられる。ドルベは痛みに耐えながら、ナッシュが血を飲むのを待っている。
 ナッシュをなんとか生かそうと身体を張る彼の思いを、無駄にはできない。ナッシュは力の入らない身体になんとか力を入れながら、傷口に口を付けて彼の身体から湧水のように溢れる赤い液体を啜る。 涙が血と混ざり、赤くナッシュの頬に筋を作った。

 鉄の味のするそれと共に、口に含んだ数粒の薬を流し込む。すると、弱まっていた心臓がドクンと大きく鼓動を始めた。全身に血が急速に巡り、身体が熱くなる。ナッシュは急な変化に身体を抑えた。しかし最初に人間になったときのような痛みはなく、脱皮をするように足から何かが抜け落ち、そして新しい器官が生えた。陸で生活するために肥大化させられた肺も小さくなり、エラができる。目まぐるしい変化が終わると、身体が冷まされていった。
 ナッシュは自分の足元を見た。そこには、人間の足ではなく鮫のような尾ヒレが下半身から繋がっていた。喉から音を出そうと口を開けると、声帯が震え息と共に声が出た。ナッシュの身体は、本当に人魚に戻ったのだ。

「ドルベ!」

 ナッシュが振り向くと、多量の血を流したまま、ドルベが横たわっていた。蒼白い顔に安らかな微笑みを浮かべて、静かに眼を閉じている。触れても、ピクリとも動かなかった。

「っ、……」

 もう一度名前を呼ぼうとしたが声が詰まった。自分を救うために命を投じた彼に、小さく嗚咽し息を震わせながらナッシュは泣いた。憎しみの中にあるナッシュを愛して支えてくれた、かけがえのない人を失ったのだ。共に生きようと言ってくれた人を亡くして、これからどうナッシュは生きていけばいいのか。血に濡れるのも構わず体温が失われてゆく身体を抱き締め、その蒼白な顔にただ涙を零した。
 ふと、心臓がある位置に手を置いた。ナッシュを落ち着かせてくれる強い鼓動は鳴りを潜めている。しかし、僅かに弱い感覚を感じた。ハッとして耳を付けると、消えそうなほどに弱いが、まだ停止していない鼓動が確かに聞こえる。

(死なせねぇ)

 ナッシュは尾ヒレの膝の部分に彼の頭を乗せ、夜の海に向かって歌い始めた。今まで歌ってきた嵐を起こす呪いの歌ではない。初めて、誰かの為に歌う歌だった。息が切れても、喉が嗄れても、ナッシュは海に響き渡るようにその歌を繰り返し歌い続けた。


「…………」

 讃美歌を歌うような美しい歌声が遠くで聴こえた。今まで聴いたことのないような、神聖さすら感じさせる美しく透き通った声だ。自分はもう、死後の世界に迎えられてしまったのだろうか。
 ドルベは眼を開いてぼんやりと白く霞みがかった視界を映した。痛みは全くなく、身体の芯から癒されてゆくような心地を覚えた。そして声が大きく聞こえる。歌は意外にもすぐ近くで歌われているようだった。

「この、……歌は」

 か細い声でドルベは独り言のように呟く。心が落ち着くような、温かい水に包まれるような、そんな歌だ。きっと、歌っている者の声も相俟ってそのような心地を覚えるのかもしれない。
 ふと、歌が止んで別の声がした。

「ドルベ」

 自分の名を呼ぶ、凛とした澄み渡るような声。今度こそ自分の前にある人物を確かめようとドルベは灰色の眼を大きく開いた。視界に現れた碧い瞳と蒼髪が朝日に照らされて、キラキラと煌めいていた。

「ナッシュ…!」

 これは夢なのかそれとも死後の世界なのか、現実なのか…いずれにしろ真っ先に眼に入ったナッシュに心が震えた。その様子を見て彼は穏やかに笑みを浮かべ、ドルベの腹を撫でた。ハッと手の方を見ると、剣を突き立て大きく傷が残っているはずのそこには何もなく、あれだけ流した血はすっかり乾いてしまっている。

「これは……私は、死んだのではないのか?」

「馬鹿。死ぬわけねぇだろ」

「ナッシュ、声が……!」

 身体に力を入れると、ナッシュに支えられながら起き上がることができた。改めて、彼を見る。脚だったものは尾ヒレに変わっており、人魚の姿をしていた。
 ナッシュの姿は人間だった頃よりも堂々と、美しく見える。声も、どんな声だろうとドルベが思い描いていたものよりもずっと透き通って美しい声だった。

「あの歌声は、君のものだったのか」

「そうだ。人魚の歌声に宿る魔力は、憎しみと悲しみが籠れば呪いの歌になり、愛しさと歓喜が籠れば癒しになる。俺の歌で、傷を癒してたんだよ。……なぁ、ドルベ」

「なんだい?」

「俺の姿見ても、…何とも思わねぇか?」

 ナッシュは大きな尾ヒレを身体の後ろに隠しつつ頬を少し紅くして、ふいっと顔を逸らした。ドルベに自分の姿を見られることを恥じているようだった。
 そんないじらしい姿に堪らず、彼の身体を抱き寄せた。

「綺麗だ。君の姿も、その声も。益々、美しい君が愛おしい。ナッシュ、助けてくれてありがとう」

「俺こそ…お前には何度礼を言っても足りねぇよ」

 ドルベの背中に、彼の腕が回る。こうして彼が抱き締め返してくれるのも、思えば今までなかったことだ。そう思うとまた愛しさが込み上げ、更に腕に力を入れる。いてぇ、と小さく非難の声が上がり、クスリと笑いながら謝った後に彼の名前を呼んだ。

「これからずっと共に生きてゆこう。君は海で、私はここで。ずっと繋がっていよう」

「ああ。互いに思い合えばずっと一緒に生きていけるさ」

「ナッシュ」

「何だ?」

「私の名前…もう一度呼んでくれないか」

「ドルベ」

「ん、…もう一度……」

「ドルベ、好きだ。ドルベ……ありがとう」

 美しい声が自分の名前を呼ぶのに聞き入る。願ってやまなかったことだ。彼の声を聞くのも、こうして抱き合っているのも、共に生きると誓うのも。幸せだった。きっと彼の歌がこんなにも心に幸せをくれたに違いない。

「ナッシュ」

 腕を解いて片手を顔に添えるとナッシュはドルベの考えを察したのか、大人しく眼を閉じた。少し開いた彼の唇に口付ける。口付けを通して愛情を伝えるように、ナッシュから伝わる思いに応えるように、唇を吸ってゆく。時折吐息を零しながら、再び背中に腕を回す。
 そうした二人の口付けは離れることを惜しむように長く続いた。朝日が昇る海岸、その二人だけの世界を永遠に刻むように。



 海辺に面した王国。ここにはいつから言い出したのか、どこから伝わったのか、その出自は不明だがある噂があった。
 夜になると、海の方から声が聴こえてくるのだ。それは魔物の咆哮でも戦の鬨の声でもなく、誰かが歌う美しい歌声。その歌声は聴く人々の心を癒し、怪我や病気に冒されている者が聴くとたちどころに快復するという。
 そして歌が聴こえてきた次の日には海岸には色々な資源となる鉱物が打ち上がり、港に張っておいた漁の網には活きのいい魚がかかっているのだそうだ。
 何の歌なのか、誰が歌っているのか、どこで歌っているのか、そこに住まう人は誰も知らない。その姿を見たものはいない。ただ一説には、海の化身とされる人魚によるものではないかと言われている。長年嵐を起こすものとして忌み嫌われた人魚だが、美しい歌を響かせれば海を豊かにしてくれるという新たな説が広まった。人々は王宮の命令の下、その海の恵みに感謝し海と共栄するために乱獲等をしないよう取り決めを行った。
 以来この海に面した王国は、小国ではあったが長きに渡り平穏と繁栄を築いたと後世に伝えられることとなる。

 一人の白銀の甲冑を身に纏った騎士が、歌声に導かれるように海岸へと向かった。砂浜をずっと歩いたところに、あまり人が立ち入らない高台がある。そこに登ると一人の蒼い髪の人魚が海に向かって歌っているのが目に入った。
 騎士が声をかけると人魚は歌を止めてそちらの方へと振り向く。騎士は人魚の隣に座り、耳元に何か囁くとその頬にキスをした。人魚は照れと嬉しさが混じったような表情を浮かべ、お返しとばかりに同じようにキスをする。楽しそうに二人して笑った後、身を預けるように静かに抱擁した。しばらく抱擁したまま何かを話し、途切れるとそれが合図であるかのように唇同士を合わせ、長めのキスをする。一連のそれが終わると次は二人寄り添いながら海の方へと向いた。夜空に星が輝き、暗い闇を柔らかな光で包み込んでいる。その光に照らされながら人魚は再び歌い始めた。
 それは、喜びの歌。幸せの歌。聴く者に幸福を運ぶ魔法の歌。その歌を歌う人魚は慈愛に満ち、幸せそうな表情をしている。海を愛おしみ、隣の騎士を愛おしむように、幸せに溢れる美しい歌声を海へ響かせた。
 騎士は人魚の肩を抱いて頭を肩に預け、その歌声に聴き入るように眼を閉じた。彼もまた幸せそうな表情をその顔に浮かべて、いつまでも人魚の歌を聴いていた。

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